マタギ
- カテゴリ:日記
- 2017/01/04 19:28:47
マタギの活動時期は冬季~春の芽吹き前の季節に集中している、既に明治維新後の頃のマタギも専業の者は稀であり、大半が兼業であった。マタギたちの本職はまちまちであり、猟期ではない夏季は手っ取り早く現金が手に入る鉱山労働や農業・林業などに従事していた。
狩猟の対象は換金効率が高いツキノワグマやニホンカモシカが主だが、昭和初期には乱獲の影響からニホンカモシカが天然記念物に指定されて狩猟が禁じられ、ニホンザルなども乱獲の影響から姿を消していた。そのため、時代が降るに連れて換金効率の高い自然とクマに狙いを絞って狩猟するマタギが多くなった。マタギ=クマ猟師のイメージは、ニホンカモシカやニホンザル等の比較的小型の獣が狩猟対象獣から外された故のイメージであるといえる。
ツキノワグマの胆嚢、いわゆる熊胆は古来から「万病に効く薬」と信じられており、「熊の胆一匁、金一匁」と称された。胆嚢だけでなく、ツキノワグマは毛皮や骨、血液、脂肪までもが、薬や厄除けのお守りとして余すところ無く高値で取引された。まとまった現金収入が見込めない山間僻地の住人たちにとって、クマがもたらす現金収入はまさに生命線であったといえる。
鉄砲を使った猟の形態としては主に三種類ある。大人数で山中に展開してクマの包囲網を形成する巻狩り、単独、もしくは複数人の少人数で足跡などの痕跡を辿って獲物を追跡するシノビ猟、冬に越冬穴内で冬ごもり中のクマを仕留める穴熊猟である。現代においてマタギの猟法としてイメージされるのは巻狩りであるが、その他にも鉄砲を用いず、山中で圧殺式の罠を仕掛けるヒラオトシと呼ばれる罠猟等も行っていた。
初冬の頃、森の木の葉が落ち、山中でも見通しが効くようになる冬になると、マタギたちは集団をつくって森吉山や八幡平周辺の山地、奥羽山脈や白神山地、朝日連峰のような奥深い森林に分け入り、数日間に渡って狩猟を行った。猟はかなりの大規模な猟とならない限り日帰りも多く、万が一野宿することとなっても、大半は山の中の洞窟をシェルターの代替物として利用したり、その場しのぎの雪洞を掘ったりして野宿していた。[6]狩りが少人数、もしくは単独行である場合はマタギ小屋と呼ばれる小屋にあらかじめ米や薪などを運び込んでおいた。いざ冬になって狩猟が始まると、マタギたちはここを基地としてクマ狩りを行うのである。この小屋は周辺の大木の切り株や木板を並べただけの非常に簡易なものなので、長持ちはしなかった。風雨によって壊れると、翌年はまた新しい小屋がつくられ、マタギ小屋は数世代にわたってマタギたちのベースキャンプとなった。
また、故郷を遠く離れて何ヶ月間も猟をする旅マタギの場合は、「マタギ宿」と呼ばれる馴染みの農家に長逗留するなどし、その宿賃は狩猟の後に支払われた。]場合によっては旅先で婿養子に迎えられるなどして、最終的にはその地に居着いてしまったマタギも多い。こうした背景により、マタギたちが持つ豊かな狩猟の技術の蓄積はじわじわと東北の各所に伝えられていった。こうしたマタギ宿は秋田県由利郡鳥海町、岩手県雫石町田茂木野、沢内村貝沢などに存在していた。
マタギ組の各人はそれぞれ仕事を分担する。巻狩りの場合、通常は、勢子(追い出し役)がクマを谷から尾根に追いたて、鉄砲打ち(ブッパ・ブチッパ)のいるところまで追い上げる。ひとつの集団の人数は通常8~10名程度だが、狩猟の対象によっては数十人編成となることもある。マタギ組の頭領はシカリ、]ないしスカリと呼ばれ、大抵は猟の技術や山の知恵に長けた老練な猟師が任じられた。山中におけるシカリの権限は絶対であり、猟そのものだけでなく、宗教的儀式や炊事など、山中で行われるあらゆることの一切を取り仕切る立場にあった。
無事獲物を仕留めると、獲物の御霊を慰める儀式、獲物を授けてくれた山の神に感謝する儀式等が執り行われた。修験道に由来するというこれらの儀式はシカリが主催者となって執り行う。この際に唱えられる呪文はシカリを継ぐ者に対し、先代のシカリから師資相承で受け継がれた。これら各種の儀式や呪文については各マタギ郷毎に微妙な違いがあるものの、全体的には修験道、仏教の影響が色濃い。