豊臣秀吉の放浪期
- カテゴリ:日記
- 2016/11/13 08:28:07
今山梨日日新聞で太閤の活いう小説が連載されている、まあまあ面白いともいえるね、
松下源左衛門長則・嘉兵衛(加兵衛)之綱父子。
松下氏は、当時駿河・遠江両国の国主今川義元臣下の土豪。嘉兵衛之綱は秀吉と同年代。
現在城址の一部は小さな公園になっている。一重の堀と土塁に囲まれていたとの図面が残る。
引馬城の支城的存在だが、規模的には城というより屋敷と言ったほうが適切かもしれない。
ここを「頭陀寺城址」と呼ばずに「松下嘉兵衛屋敷跡」、または「松下嘉平次屋敷跡」※(その2)参照
とすることもあるそうだ。浜松市博物館では「伝松下屋敷」としている。
秀吉(当時の名前不詳)はこの松下屋敷でその才能の片鱗を見せ、異例な出世を遂げた。
しかし流れ者ゆえか他の家臣に疎まれ、人間関係などが難しくなったためこの屋敷を去った。
一説には、松下長則が秀吉に、ここでその才能が埋もれるのは惜しいと諭したとか。
実際のところは、家中の波乱を避ける為あえて出る杭を打ってしまったのだろう。
突出した才能を持つものを生かしきれない、保守的な家風だったのか。
流れ者を能力主義で重用してきたことは、当時としては先進的であったのかもしれないが。
全体の和も重視せざるをえない松下家の事情と、そんな家に秀吉が限界を感じたのと両方か。
ここで奉公したのは3年間※。その間のエピソードもいくつか伝わっているが、どこまで事実かは不明。
※奉公したのは5年間だとの説もあります。その後秀吉は織田信長に仕え、幾多の戦いを乗り越えとうとう天下を取った。
一方松下家は戦国乱世の中、小豪族として主君を今川→北条→武田→徳川と替え、
ついに松下之綱(嘉兵衛)はかつての家来・秀吉により大名に取り立てられた。
上写真の久野城(袋井市)は大名になった松下氏の初期の居城のひとつ。
領地・城の規模が小さい割に優れた設計で守りを固めており、
格式の高い瓦を使っていたことが近年の発掘調査でわかった。
之綱は特に優れた人物ではないため、あまり広い領地を与えるわけにはいかなかったが、
秀吉としては旧恩に応えるため、格式の高い城を与えたという説がある。
秀吉と之綱の再会は行われたのだろうか。どんな会話があったのだろうか。
廃城は江戸時代初期。開発の手が伸びていないため、よい形で残っている城址だ。
一代で出世したため古参の家臣には恵まれなかった秀吉。
成り上がった後についた多くの家臣達は、今ひとつ信用できないという気持ちもあっただろう。
いろいろあったとは言え、かつての主君には精一杯の恩返しをしたくなってもおかしくない。
他の家臣や従属大名にそうした姿勢を見せることが目的だったかもしれない。
もっとも、之綱にとって大名になることが本当の望みだったかどうかはわからない。
家康と秀吉が対立したとき、之綱は家康側についている。どんな事情だったのだろうか?
その後松下氏(之綱の次男系)は、徳川幕府の外様大名として烏山・二本松・三春などの藩主を勤めた。
之綱の孫、長綱のとき幕府により改易(お家取り潰し)された。後に旗本として再興、明治維新に至った。
剣術の達人・柳生十兵衛の母は松下家の出身だという。
秀吉が初めて仕えた家ということで、ここでの経験がその後の彼に大きな影響を及ぼしたと思われます。
若き日の豊臣秀吉の人生は謎が多く、諸説あります