太宰治と甲府
- カテゴリ:日記
- 2016/07/04 14:07:06
作家の太宰治は1938年(昭和13年)9月に井伏鱒二の仲介で山梨県を訪れ、甲府市水門町(朝日一丁目)に居住していた地質学者・石原初太郎の娘美知子と見合いし、結婚する。翌昭和14年甲府市御崎町(朝日五丁目)で新生活をはじめ創作活動を行ない、太宰中期の代表作を発表している。同年9月には東京三鷹に転居するが、その後も石原家や井伏との関わりから山梨との縁は続き甲府の石原家にはたびたび滞在している。
1941年(昭和16年)に太平洋戦争が勃発し、1945年(昭和20年)3月には美知子や子の園子、正樹らと甲府に疎開し、石原家や同じく疎開していた井伏らと過ごしている。7月6日の甲府空襲で石原家は焼失しており、太宰は甲府市新柳町(甲府市武田)の山梨高等工業学校(山梨大学)助教授の大内勇宅に身を寄せた。
1946年11月に発表した「薄明」において大内家に滞在した空襲の記憶を執筆している。太宰はその後、故郷の青森へ再疎開し終戦を迎えている。
太宰の師である井伏鱒二は昭和初年から山梨県を頻繁に訪問し、趣味の川釣りなどを行うほか多くの地元文人らと交流し、山梨を舞台にした作品も多い。井伏は1941年(昭和16年)に陸軍に徴用されシンガポールへ駐在していたが、翌1942年に解除される。1944年(昭和19年)には八代郡甲運村(甲府市和戸町)の岩月家に疎開しており、甲府空襲では被災している。井伏はその後、広島県福山の自宅へ再疎開している。井伏は戦後も山梨県を頻繁に訪問し、俳人の飯田龍太らと交流した。
覚えてる??
素敵置いてくね◎