Nicotto Town



考えるということ

仕事で表参道に出向いていたのですが、15時半ごろまで昼食を取れなかったので、久しぶりに骨董通り沿いにある無印の食堂に入りました。スッキリとした小奇麗な店内で、デリ形式でおかずを選び、ご飯を食べられます。

で、この手のお店に入るといつも思うのは「男がいない」ということ。

どうして男性というのは、こういう生活文化に関して女性より感度が低いのでしょうか。食事でも、アルコールでも、洋服でも、住まいでも。個人差はあるので一概には言えませんが、大きくはやはりそうかなと思います。

私はそうじゃない、という話しがしたいわけではありません。
ありませんが、偉そうな話しになってしまいます。。。すみません


私は職業として、商品開発とか、サービス企画とか、マーケットリサーチとか、そういうものに日々触れるのですが、実はこれが出来る人と出来ない人には、かなり明らかな差分があるように感じます。もともと持っているポテンシャルというのは、ここでは置いておきます。

商品でもサービスでもなんでもいいのですが、そういうものを考える時というのは、例えば何かリサーチなどをしたら、そこからある気付きを得て、さらにそれを目に見えた現象そのものとしてではなく、一旦は概念レベルに引き上げ、それらを取り巻くものとの関係性の中で在り様を理解し、それから改めて現象レベルに戻す、というプロセスが必要になります。目に見えたことを右から左に流しても、面白いものも新しいものも何も出てきません。

これが程度の差こそあれ出来る人と出来ない人といのがいる、ということです。そもそものポテンシャルは置いておくと言いましたが、もう一つ、とにかく柔軟性がないとか自分の意見を絶対視してしまうとか、そういうメンタリティも置いておきましょう。

ではそれらを除くと、出来る人と出来ない人の差分は何か。それは3つあると考えています。「知識」と「想像力」と「人生経験」です。これらはバラバラの要素ではなく、ワンセットです。必須のスキルセットと言って良いでしょう。そして例えばリサーチによる分析と発想は、実はそのスキルセットから生まれる「直感」でやるものだと思っています。

直感でやるとは、ロジカルな思考がいらないということではありません。しかしロジックとロジックをつないだり、見えていないロジックを見つけたりするためには、そういう直感ありきで何かを考えだすような乱暴さが必要です。それが出来ないと、見聞き出来た事象のとりまとめしか作れない。どんなに証拠を積み上げても、それだけでは何もでて来ません。


まず知識。
どんなに思考力があっても、知識がなければ考えるスタートラインにも立てません。知識というのは、学校の専攻や、仕事で習得して行く何かのテクニックといったスペシャリティのことではありません。荒っぽく言ってしまえば、雑学一般も含めたあらゆることへの知見や理解だと言っていいでしょう。
一つ一つが深く専門的である必要は必ずしもありませんし、それは不可能です。広く浅くでもいい、世の中に散らばるあらゆる事への興味関心と、その結果としての知識です。単に情報として知っているものは、知識とは言いません。それはただの雑学です。完全でなくてもいい、間違えていてもいい、そこに自分なりの解釈や咀嚼があり、自分が思考した結果として、その他の知識と大なり小なりつなぎ合わせれ、何がしかの体系として自分自身の中に落としこまれているもの、それが知識です。

しかし、この世界に対する興味関心をどれだけ持ち、そして広く浅くで良いとは言え、無限に知識を得る事は出来ないし、得た情報を自分自身のものとして咀嚼して落とし込んで知識としいくためには、情報だけがあふれていてもダメでしょう。そこで必要なことは、たぶん経験です。人生経験と言っても良いでしょう。
いろいろなものに触れ、経験し、そこから何かを感じ、気づき、そして考える。その感じ、気づき、考えるまさにその時に、蓄えてきた知識がつなぎ合わされて行く。知識がなければ、豊かに感じ、気づき、考える事はできません。

でも、人は無限に経験をすることは出来ない。だから想像をします。なんだこれは。何故こうなのか。そこに本当は何があるのか。バラバラの気づきや考え、知識は、想像力によって結びつき、足りていない空白部分を想像力が補完して行く。でも想像力を以て補完し、あるいは強めていくためには、想像力の源泉が必用。それは結局は知識であり経験です。

子供がいない人に子供のいる生活なんて、理解できない。

ではどうすれば少しでも理解に近付くのか。
人は全てを経験することは出来ないので、どこかで補うしかない。どこで補うか。いま話してきた通り、持てる他の知識と、人生経験を元に、想像力でフォローするのです。それが出来なければ、未体験の領域について想像したり想いを馳せたりすることは、何も出来なのかと思います。


どれが先で、どれが後でもない、どれが上位概念でも下位概念でもない。分かちがたくつながった一つの塊です。そしてそのモワモワとしつつも繋がったその体系のことを「教養」というのです。

そしてその教養から、直接は無関係なことを関連づけて考えたり、そこにどういう意味があるのか掴み取る大局観、あるいはそこから何かを発想する力、それを「センス」といいうのです。センスとは、単に持って生まれた能力では決してないはずです。

先ほど「直感でやる」と言ったのは、そういうことです。直観は思いつきでは決してありません。「直観」とは、そういう決して才能だけではない様々なことの積み重ねによって醸成される「教養」と「センス」が生み出す、ひとつの成果物なのです。


いずれにせよ、リサーチをすることも、デザインをすることも、サービスや商品を作るということも、知識と、想像力と、人生経験が必要だと言う事になると、それは自分が見ようとする対象、あるいは創ろうとする対象に対して、自分自身を対峙させていく取り組みになります。つまり自分自身が何十年かの人生の中で、何を感じ、気づき、考え生きて来たのか、それが問われるのだと思います。対峙させるべき自分がなければ、当然そこには何の発見も発想も無いのかもしれません。


以前に、会社の若い子が一泊6万円だか7万円だかのホテルのスイートに泊まり、凄すぎて驚いちゃって云々ということがありました。その話しを聞いた時に、ああこれはマズイな、と。

ホテルには、一泊3000円の最低ランクのビジネスホテルもあれば、一泊100万円のスイートもある。でもそこに絶対的な良し悪しの価値基準があるわけではありません。泊まる人の、その泊まる文脈や背景と、ホテルの部屋の存在する文脈や背景、それらが交差するところにどんな意味が生まれるのか、そこに価値というものが現れるのでしょう。
別に贅沢をしろ、というのではありません。ただ、ホテルという人がどこかに出向き、自らの家ではないところに身を置くということの文脈に寄り添うものには、3000円から100万円の振り幅があるのだ、ということの意味を感じるための感受性と、そういう世界があるという知識を、自らの生の感覚として持っていて欲しいのです。それでなければ「ホテルとは何か」と思索を巡らせることが出来ないのです。


別に何が言いたいわけでもありません。ただ、それを伝えるのは難しいなと思った、というだけのことです。
おしまい。。。

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2016/07/04 00:09
辞めるのかw
まあ、大抵は夜中です。 

どうって話でもないんです。こういうのは載せいないでいようと、いつも思うのですが、まあそれで「ちがう!」と叩かれたいとも思うし、なるほどと思う人がいればそれでいいとも思うし、なので何となく載せてます。
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2016/07/03 18:05
おおおー
拝見してて途中で辞めましたw

そして書いた日時と時間を見ましたw
もーえんさんはどんな時にこんな文を書いてるんだろ~な~って。

まーでもFC東京のグッズ開発に読ませたい文だった。
他のチームグッズ見てると、我チームの企画力のなさにがっかりする…。
商品開発とかした事ないけど、意見言わせて!って思うもん。





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2016/06/30 21:47
知ってますw
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2016/06/30 21:46
おおおおー
拝見させていただき大変勉強になりました。
僕は女性の多いカフェで食事全然大丈夫ですよ。



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