2011年3月のブログ
- カテゴリ:日記
- 2016/03/15 19:00:40
2011年3月の自分のブログを
読み直してみました。
停電があったので地震後に書けたのは
3月13日 午後でした。
今読んでも みんなからのコメントが
嬉しいです。
またニコタのブログを 被災情報の伝言板として開設していた方
がいたことも思い出しました。
携帯は繋がりにくい状態が続いてましたから
すごい迅速で的確な判断ですね。
私など ひさしぶりにアイスを食べられた とか
もう 自分のダメぶりが まるわかりで恥ずかしいです^^;
ま 流通が混乱してたこと また3日にまたがる停電がさらに一回あったから
などですけどね・・
「天災は忘れたころにやってくる」・・
電池類・賞味期限長い食べ物・・とか
ちゃんと用意しておこうと こころより思いました。
生活保護者の親をおそい 妹などいたら 犯すなど・・・脅迫つづいたんです
チャットは悪いサイトとして やってはならないと教育委員会が支持
役所にかかるすべてのこの手の苦情は無視すること
やがて ネットのチャットは 国の方針で廃止
それにより チャットを作っていたプロバイダーは 込みにケー諸んサイトを八割削減 無料提供しない方針になり 黒字になってますが、国家予算の二割がこのやくざにより つぶされ 仕事できないものたちは このものたちに 生活環境つぶされてしまっていたわけです 事実アメリカの統計データでもでています
やっと そのいやがらせがなくなり 二年の月日がたちましたが ・・・後遺症は大きなもの
このやくざに 責任おわせるべきだと 感じます
本来 こんなことなければ すべての人は仕事もてて 生活ができたのに・・・この国は まだ闇の中なのだと 感じてます
東北自身で人は変わった いいほうにかわった人にめぐりあいたい
ニコのように お互いの距離感をたもって 合ういてを尊重しあって 話せるのがいい
人は弱いもの いざというとき 助け合えれば感謝になるけど いじめになれば
うらみしかなくなり 嫌がらせした本人たちは 覚えられていて いざ何かあったとき 何もしていただけなくなります
今 正社員になれない人たち すべてが 将来生活保護や国の支援にたよらざるおえないことは 完全に決まっています
今 いじめやつていた人たちは 時間はあるが 仕事でうまくいかなかったり お金にからんでいる問題抱えている人たちなのですが 将来 今よりはるかに少ない支援しか できないように 自分たちが暴走している 将来のこと何も考えない馬鹿な話です そんな人たちと縁がすっかりきれ ようやく落ち着きました
もし こんなことなければ アメリカ大使館にもう数回話して 支援要請したのに・・・もっと大きな会社を動かし 製品かった一部の資金を東北に回すようなもの 多く作らせるように 運動おこせたのに・・・
もっともっと・・・ なのに・・・ すごく 悔しい話です
東北地震は 被災者だけが 被害ではなく 弱者すべてに被害をおよぼしました
これが わたしの東北地震の思い出です
国は切迫した予算になっていった ・・・・
これはいいのですか゜・・・東北の被災難民 被災孤児が増えて いじめがはやりはじめたとき
ネットでも 大きな門対がおみり・・・病気していたり 生活保護うけざるおえない人たちは 芸能人のおやが生活をみられるのに 海外いったり家かったりしていたことより
すべての病人や生活保護にたいし 国も含めたいじめがはじまりました
こんなときだからこそ 真剣に東北だけをみつめ 整えるべき なのに やくざのように 夜中まで電話してきて
金かえせ 殺すぞ 生活保護や病人はいらねーしねばいい
なと゜・・・ 警察なども 単なる延じ゛ょうだろ ほっとけばいいと・・・
病気している人の大半は不安かかえ 病気が重くなり 政府の生活保護の医療費削減とは うらはらに 現在は倍増しているほど・・・
少しでも支援したいと がんばっていたりした人たちをいじめる
心がすさんだ゛人が 暴走してしまったため 支援が遅れるようになりました
何時間もゆれが続き テレビでの 自身情報がなかったんです
最初の被害状況は次の日になりました
横浜でも いくらか被害はありました
コンビにやスーパーは 加工品はすぐになくなり 生物が多くありました
生活するには 生ものでもかまいませんが こんなにものがなくなるのは はじめてです
日に日に東北の自身状況があきらかになる中 やはり 何か支援しないと
おもいつきですが 岩手 青森 福島 にメールなどに問い合わせし
今必要なもの 毎日テレビとネットとにらめっこして
横浜市から 放置自転車二百台ほどを岩手に送ることとりつけたり
大きな船がうちあげられてましたが 日本にはあの船をうごかせるクレーンがないと報じていたため
特殊船舶の業者にメールし
沖縄の基地問題だけに動かされていた米軍は まだ支援してなかったため 外交官と沖縄の米軍基地に 助けを求めるメールをして
原子力発電所の復旧電力の設備 低いところにつくっていたのですが そこでは 二次被害にあうから 高台にうつすよう 原子力発電の請負業者の日立に 連絡したりしてました
被災地で当時自分とたいして変わらない年齢の子達が活動していたのがとりあげられていたのを覚えています。
子ども達の前向きに頑張る姿に励まされた方もいらっしゃるんじゃないかな、と思います。
地震の特集などを見るたびに、甘さを痛感しますね……
恋愛も塾でリスペクトしてますっ
小桃さんはモダンホラーが好きなんですね・・・
楽しみと言ってくださっているので頑張ります!!!!!!!!!
はっきりいえないけど 災害伝言板を作ったのは
当時 小6・中1くらいの女子です。
(私のアーカイブ ご覧なるとわかります)
ニコタでも助け合いが行われていたとは..
津波などが来たときにもっていける物ちゃんと用意しないと・・・