ヨハネの子供達が顔を出したので少しだけ言うとね。
- カテゴリ:30代以上
- 2015/11/18 18:38:19
違う、違う、そうじゃない。
悪いのはフランスじゃない。
解っているはずだ。
先ず、元はエジプト時代の前の時代のロゼッタストーンで言うと
メソポタミア時代に近い旧ユダヤ教から派生した一つの宗教から
キリスト教もイスラム教も今のユダヤ教もヒンズー教も仏教も
密教も日本の神道もです。
その土地、その土地の土着宗教と共調する事によって
色々な形に変化して来ました。
ですが、今回忘れてはいけないのは自ら自分達はキリスト教徒の多い
其の国が其の国の歴史を持っている中に入り込んだと言う事です。
今回も含めてテロの為にイスラム教徒が欧州で差別を受けようと迫害されようと
其れは覚悟の上で其処に住み続けなければなりません。
で、無ければ自らテロを止めなければなりません。
そして其れを見せなければなりません。
其処に住まわせて貰うと言う事はそう言う物です。
日本は在日の人達によって生善説で対応した為に
酷い目に合いました。
恐らくフランスで大勢に北アフリカの難民を受け入れて
其の子供達が暴動を2005年に起こしたフランスも同じ気持ちだったでしょう。
彼らが其の後移民難民たちに差別的行動を取ったとしても
自ら其れを自分達の親や父母が招いた事だとは思わないのですか?
私は「綺麗事」や「生善説」の為に今も苦しんでいる日本にいて
其れを感じます。
次に前のイラク戦争の時にイラクはスンニ派とシーア派が協調して
新しいイラクを作る為にスンニ派の人達は説得されて一旦矛をを収めました。
其れを裏切ったのはシーア派の人達です。
イランがシーア派の勢力拡大の為に其れを望まない行動を取りました。
結局イラクにスンニ派とシーア派の協調した国は出来ない内に
アメリカが引き上げて結局其れはイラクの地で出来ませんでした。
解りやすく日本の例を出しましょう。
日本は江戸時代まで軍事政権でした。
天皇は存在しましたが、天皇の許可の元、「征夷大将軍」と言う
幕府が政治の実権を持って居ました。
其れが明治維新で「尊王攘夷派(天皇が直接政治を行う)」と「幕府側」と
闘います。
「天皇」が「尊王攘夷派」を認めた事で「幕府側」は「賊軍」になります。
詰り「天皇の認めて無い軍」になり多くの藩が「幕府側」から
離れて行きます。
其の中で15代将軍が政権を天皇に返して江戸城から出ます。
其れで一見落着とはいかなかったのです。
其れに納得しない藩の侍達は戦い続けます。
矛を収めなかったのです。
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箱館戦争(はこだてせんそう、慶応4年/明治元年 - 明治2年(1868年 - 1869年))は、戊辰戦争の局面のひとつで、新政府軍と旧幕府軍との最後の戦闘である。旧幕府軍の蝦夷地での根拠地から五稜郭の戦いとも呼ばれる
==========--ウィキより
この戦いに敗れて幕府軍は事実上終わりになります。
しかし多くの浪士たちはまだ矛を収めれません。
其の為に諦めさせられます。
其れは五稜郭の破壊。
其の他各地の城の破壊が明治政府の命令によってなされます。
拠点を作らせなかったのです。
200近くあったお城が残って無い方が多いのは其の為です。
所謂明治6年の「廃城令」です。
其れと同時に主に敗軍になった幕府側の武士達が
北海道の開拓に屯田兵として使われました。
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政府内の提案としては、明治3年11月(1870年12月 - 1871年1月)に開拓使が行なったものがはじめである。ついで西郷隆盛が1871年(明治4年)から1873年(明治6年)にかけて士族による北方警備と開拓を主唱した。西郷は計画の実現をみることなく下野したが、彼の影響で開拓次官の黒田清隆が1873年11月に太政官に屯田制を建議した。樺太と北海道の兵備の必要と、そのための費用を憂え、「今略屯田の制に倣い、民を移して之に充て、且耕し且守るときは、開拓の業封疆の守り両ながら其便を得ん」というものであった。黒田が考えたのも士族の活用であったが、彼の場合旧松前藩と東北諸藩の貧窮士族を想定していた。
太政官は黒田の提案に賛成し、1874年(明治7年)に屯田兵例則を定めた。1875年(明治8年)5月、札幌郊外の琴似兵村への入地で、屯田が開始された。
===========-ウィキより
小説、映画に「北の零年」で其の悲惨な実情が描かれている。
つまり、一つの国の中で敗戦した多くの兵士をどう扱うかが
一つの戦争後の大きなテーマになるのです。
其の為にイラクはスンニ派とシーア派が共同で政治を行うと言う国を作ると
言うのを有志連合国側が(中国が拒否権を使ったので国連とは関係ない。中国はカンボジアのポルポト派の大虐殺の時も拒否権を使ってあの状態にカンボジアがなるまで
国連が関与できない様にした。
更に今度は国連の主要なポストに韓国を実質支配する事を工作しながら
自分達の息のかかった人物を置いている)
スンニ派とシーア派に提示して両方に矛を収めさせて
政府を作ったが、アメリカが引き上げるとそれ以前からイランは
シーア派を入れてイラクをシーア派の反米、反スンニ派の国にしようとした。
此処に一旦矛を収めたスンニ派が再度戦闘を始める一つの理由が
出来たのです。
「約束が違う。だったらもっと自分達は手を変え品を変えて戦い続けた。
即ち表向きの「イラクの一応のスンニ派とシーア派の協調した国造り」の
案がシーア派によって反故にされたと実質取られたのです。
しかし「イスラム原理主義」から出たと言われる「アルカイダ」の集団や
「スーダンのダルフール」とは違っていたのだが。
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ダルフール紛争 - Wikipedia
=============ウィキより
今はシリアも中国製武器が使われている。
そして今度は「アルカイダ」の様なテロに変化した。
今度もどこまで中国が関与しているのか?
何故アルカイダは中国の東トルキスタンのイスラム教徒の
常識を逸脱したイスラム教徒への迫害に対して
行動を取らないのか?
アフリカにおける中国製武器を使っているイスラム教徒の
中国が東トルキスタンで長期に渡って残酷な民族強制浄化の
行為を知っていて、無視をしているのか?
「イスラム国」が此れだけパソコンを駆使して情報に精通しているのなら
中国が何をイスラム教徒を利用してやっているのかと言う事と
東トルキスタンの現状を知っているのに
何故中国批判がイスラム教徒から出ない?
フランスもドイツも欧州が死にかけた自分の親達を
国に入れて保護してくれたのに
何故暴動を起こした。
其の後にフランス人がどう言う対応するかは
推測が付くだろう。
ドイツに行った人達も同じ事になるだろう。
既に両方とも武器を売って煽っている奴を見抜いて居るだろう。