Nicotto Town


てらもっちの あれもっち、これもっち


自我と存在

自我というものは、なかなか難しいもので、
将来が決まっている。という運命論を受け入れてしまうと
選択の自由はないわけで、いま、考えている自我というものの存在も
なくなってしまう気がする。

プログラムに意思は宿るのか。のと同じ考え方。

そもそも自我という考え方自体が、自分の今もっている、考えている思考の形態と同じものが他人にもあるという前提に基づいているわけで、それは、本当はわかりっこない。
 でも、みんな自我や思考というときは言語を使って頭のなかで思考を巡らせていることを示すようであり、そこに意思がある。

チンパンジーや猫が自我を持っているのか?バッタやアジは自我をもっているのか。

「自我」自体があやふやな定義だから、論じても仕方ない。というウィトゲンシュタイン風にまとめてしまってもいいのだし、それは事実の一部なのだけど、まぁ僕たちが何者なのか。どこから来たのか。どこへ向かうのかは、誰でも興味あるてーまなのだろう。

ニュートン力学が完成したころ、3次元空間における物体の動き、これで全ての物理現象を説明できる。予測できるという風潮が生まれて、結果として、運命論のような考え方が強くなった。
 未来を予測しようとしていた占星術の延長線に科学や技術があった時代。

でも、いまは、アインシュタインの4次元論によって物理現象を説明しようとするし、そこには3次元空間に加えて時間の要素が入ってきている。

では、僕らの意思というのは、自由度は1で、単純に時間の進み具合に変化を当てているのではないか。そんなことさえ思う。

複雑な現象も、解析すれば二つの現象の重ね合わせになる。
複雑な選択も、最終的には2択になる。

多分、僕らの意思も分解していけば、デジタルに二進で表され、あるか、ないかに落とし込めるのだろう。

こんな考えに合意できるか。できないか?



それは、ともかく、意思とは存在に深く関わるものごとだ。
と当たり前の結論を述べて、アナログにカオスにお茶を濁そう。




Copyright © 2024 SMILE-LAB Co., Ltd. All Rights Reserved.