あの日から4年経ちました…。
- カテゴリ:日記
- 2015/03/11 01:23:23
あの日から4年経ちました。NHKの番組を見てて、被災地の復興はどうなっているの?
と感じました。復興も道半ば…。その復興も被災された人々に向き合ってない気がして…。
まずは、私の2つのブログ(抜粋)から紹介します。
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「私は忘れない」
(前略)
そんな中、私がPTSDにならずにいたのは、被災した場所が
津波が来た、沿岸部にいなかった事ではなく、(津波はすぐ
そこまで、来ていたそうです。)被災した人々の暖かい心遣いに、
よるものです。(詳しくは1年ほど前の私のブログをみてください。)
自分たちも、被災して、そこに暮らしていかなきゃいけない人が、
仕事が終われば、いつでも帰れる私達に、少しでも不安に
ならない様、いつまで続くかわからない停電の中、ろうそくを
たくさん点けて、夕食を普段通り用意していただき、美味しく
頂きました。不安で、いっぱいだったはずなのに、明るく振舞ってくれました。
そして、帰郷してから、多くの人々の命が失われ、生き残った人々が
苦しみの中にいた事を改めて、知りました。
私は、忘れない、自分の事を顧みず、行動した人々がいた事を・・・。
(後略)
「私たちはわすれてはいけない」
(前略)
実際に被災し、東北の人々の暖かさに触れ、力強さに触れ、
アツキ心で思いの丈を書き込んだ私ですら、段々と心が冷えてくるのが最近わかります。
そして、政治家達の被災地への無関心さ。被災地の人々が、我慢強く黙って堪え忍んでいる事を好い事に…。
首都圏で同じ様な震災にあったら、東北の方々と同じ様に行動できるのかしら?
私には、正直出来るとは、思えません。残念ながら…。
先の大正・関東大震災は、関東の人は自己を守るだけの行動しか取ってません。当然、略奪は沢山ありました。
そして、さらに朝鮮人というだけで、無実の人々が自衛行動の名の下、殺害(集団リンチ)されたのも事実です。
(中略)
ダイエーの社長・故中内 功氏や、ローソンの社長・新浪 剛史氏(注・現サントリー社長)の行動の様な事は出来ないけど、
NHKスペシャル「何が命をつないだのか~発掘記録・知られざる救出劇~」の名もなき人々の懸命な救助も、
無理かもしれないけど、あの震災の時、あれだけ一つに力を合わせたのだから、きっと、何か出来るはず。
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働き口は、復興事業の絡みで、建築・土木以外にナイ。
仮設住宅から経済的な理由で出れない人々が大勢います。(年老いた人々が多い…。)
まだ、経済的にも、精神的にも立ち直ってない人に「いつまでも、被災者ズラしているんじゃない!」と暴言を放つ輩も…。
生活不安からくる口喧嘩の絶えない家庭。その中で追い詰められてゆく子供達…。そして、離婚・離散…。
原発事故もそう。去年の秋には避難指示が続いていた「20キロ圏内」のほとんどの地域も、インフラの復旧が進み、
かつ除染がほぼ完了した(放射性廃棄物は未だ残っている。)として避難指示が解除されたけど、実際に帰村してみると、働く場所がない…。
農家は、行政から放射能が出る可能性がある為、農作物を作ることを差し止められる。風評被害で、観光客も来ず…。
漁師は、未だ東電に騙し続かれて(放射能汚染水を垂れ流し)、ロクに漁が出来ない…。
日用品を買いに行くのにも、商店街で開いている店はなく、車で片道2時間かけて、中通り地方へ…。
その上、東電から、帰村したからと言って、一方的に保証金の打ち切り…。高齢者も多く、この先どうやって、生活をしていくのか…。
本当に本当に、爪に火を灯す生活を強いられています。でも、生まれ育ち、生活を営んでいた土地に戻りたいと…。
一方、長い間ふるさとに戻れず、たくさんの理由から、ふるさとを捨てる為に先祖代々の墓に報告に来たおじいさん…。
安倍首相が声高に「地方創生」「女性も男性も共に働き共に育むことのできる社会~女性の活躍 ウーマノミクスで日本を変える~」
と言うけど、被災地の人々には、まるで絵空事…。潤っているのは、東京の建築業者。その会社にお金の為だけに隷従する人々…。
必要なのは、力…。非力な女性の働く場所は極端に少ない…。『アベノミクス』もまるで別な国の話と思っていることでしょう。
被災地の方々が『”頑張ってきたのに…”突然 折れる心』の状態になっているなんて…。
この詩が、今の私には非戦を詠った詩が、東日本大震災の事を詠った様にも思えます。
『弔詞』 石垣りん
職場新聞に掲載された一〇五名の戦没者名簿に寄せて
ここに書かれたひとつの名前から、ひとりの人が立ちあがる。
ああ あなたでしたね。
あなたも死んだのでしたね。
活字にすれば四つか五つ。その向こうにあるひとつのいのち。
悲惨にとぢられたひとりの人生。
たとえば海老原寿美子さん。長身で陽気な若い女性。
一九四五年三月十日の大空襲に、母親と抱き合って、
ドブの中で死んでいた、私の仲間。
あなたはいま、
どのような眠りを、
眠っているのだろうか。
そして私はどのように、さめているというのか?
死者の記憶が遠ざかるとき、
同じ速度で、死は私たちに近づく。
戦争が終わって二十年。もうここに並んだ死者たちのことを、
覚えている人も職場に少ない。
死者は静かに立ちあがる。
さみしい笑顔で、
この紙面から立ち去ろうとしている。忘却の方へ発とうとしている。
私は呼びかける。
西脇さん、
水町さん、
みんな、ここへ戻って下さい。
どのようにして戦争にまきこまれ、
どのようにして
死なねばならなかったか。
語って
下さい。
戦争の記憶が遠ざかるとき、
戦争がまた
私たちに近づく。
そうでなければ良い。
八月十五日。
眠っているのは私たち。
苦しみにさめているのは
あなたたち。
行かないで下さい 皆さん、どうかここに居て下さい。
――詩集「表札など・1968年・思潮社刊」より――
私自身、日々の生活に忙しく、ボランティア活動もせず、微々たる募金をするのが精々…。
どう行動したらいいのかわからない状態でした…。そんな中、オペラ歌手の
森公美子さんが、歌で被災された人々を応援しょうとするTV番組「東北発・未来塾」を見ました。
彼女もまた被災地出身で、津波で親友を亡くした人でした。本当に歌が大好きな方で、
被災された人々と「モリクミ・プレゼンツ合唱団のコンサート」を開きました。
ああぁ~、こんなやり方もあるんだぁ~と。
そう言えば、小澤征爾さんも被災地を廻りゲリラコンサートを公演したましたっけ…。
うん!自分なりの被災された方々を応援をしようと思いました。
さあ!皆さんも良かったら、御一緒にに応援して行きませんか?
今年も同じ思いで読みました。
しかし、1年たったけれど、被災地の人々は幸せになっているでしょうか。
復興は進んでいるでしょうか。
原発再開の動きだけ進んでいるようですね。
汚染水をどうするのでしょうね。
石垣りんさんの詩を読ませてくださってありがとうございました。
心に響きます。
やっぱり自分の気持ちも風化していき思いを馳せることが昔より少なくなってきました
忘れちゃいけませんよね(>_<)
今日は運転中で追悼サイレンで黙祷することが出来きなくて残念でした(>_<)
遠く離れた鹿児島からも追悼サイレンがけたたましい音で・・・
自分なりの応援賛成です(^-^)
複雑な思いでここ何日か過ごしています。
確かに亡くなった人は多くありませんが、私の地区は「倒壊の危険あり」と言われて
引越しを余儀なくされた人が多くいます。
最終処分場の計画も消えた訳ではありません。
放射能のせいとは言い切れませんが甲状腺の腫瘍も出来ました。(一応良性と言われましたが・・病理検査しないと確定は出来ないそうです)
今日はTVを見れません。
自分の出来ることで・・何か行動を起こす・・ていうのは大事かと・・。
私も・・何もできないけど・・ブログに書いたり・・答えたり・・。
ホントに・・小さな事ですが・・。
てか、病気の看病は・・体よりも・・精神的に参ることが・・。
どうぞ・・無理をなさらず・・心のケアも・・忘れずに・・。