お遍路しながら考えていたこと その1
- カテゴリ:レジャー/旅行
- 2015/03/07 15:53:36
お遍路で歩き続けていると無我の境地になれる…
そんなことは、
この安寿においては絶対ありえません。
日々、煩悩と妄想にまみれながら歩き続けておりました。
どんなこと考えて歩いていたかというと
… トイレ、行きたい … ☆\(ーーメ)
寒い中を歩いているから、
トイレに行きたくなるのです。
でも、街中ならともかく、
田園風景の中ではトイレが、
そうそうあるわけではなし…
だから遍路中、
トイレを見つけたら、
小まめにしておくこと… ☆\(ーーメ)
そんなお遍路道中だったわけですが、
それでも少しは真面目なことも考えていたのです。
例えば、16番札所・観音寺。
このお寺にはこんな逸話が残っています。
昔々、火のついた薪で殴るなど、
普段から姑を虐待していた嫁が、
この寺で雨宿りして服をたき火で乾かしていた時、
服に火がついて大火傷をしたらしい…
「ああ~、この大火傷は、弘法大師様による
姑イジメをしていた自分への罰にちがいない。」
そう考えて、己の行いを深く省み、
その体験を描いた絵をお寺に奉納した。
実際、その絵は本堂に掲げられいます。
つまり、大やけどを機に自らの行いを省みて、
それを一つの因果応報の逸話にして奉納したわけですね。
そう考え、そのように行動したお嫁さんに対して、
私は特に疑問を感じることはないのです。
でも、なんで、
その体験談を因果応報の教訓話として本堂に飾ってしまうのだろう。
それってなんかおかしいと、安寿は思ってしまうのです。
弘法大師や神さまはすべてお見通し、
悪いことをすると罰が当たるぞということなんでしょうか。
でも、悪いことをすると、
弘法大師がどこかで見ていて、きっと罰を与えるから、
悪いことをしてはいけないという理屈はおかしくないですか。
ならば、罰に当たらず、地獄に堕ちず、警察から逃げ切れるのなら、
悪いことをしてもいいのでしょうか。
罰が当たるから、地獄に堕ちるから、法に触れ、刑罰を受けるから、
悪いことをしてはいけないという倫理観は、
まだまだ他律的な倫理観だと思うのです。
弘法大師が罰を与えようとなかろうと、
悪いことは自分の判断と責任においてしてはいけない。
罰が当たろうと当たるまいと悪いことをしてはいけない。
このように考える人の方が、
遙かに自律的な倫理観の持ち主ですし、
このように考える人が多くいる社会の方が、
遙かに秩序が保たれる社会であるように思うのです。
つまり、弘法大師や神を持ち出す倫理観や社会的秩序は、
この世界の秩序の保ち方が権威主義的なのです。
権威主義的な秩序の保ち方は、
権威の目の行き届かないところでは、
「旅の恥は掻き捨て」という振る舞いを許すのではないでしょうか。
事の善し悪しを権威に頼らず、
自律的に判断するようでなければ、
倫理は普遍的倫理として確立しない。
安寿はそう思うのです。 ☆\(ーーメ) カントみたいな奴!
また、嫁姑問題、ひいては様々なDVの問題を、
徳目をないがしろにするから起きると考え、
徳目を再興することによって解決しようとする発想では、
この問題は解決できないのではないでしょうか。
児童虐待のように
親子関係の中に子どもが閉じ込められていて、
一方的な暴力や育児放棄、ハラスメントを受けているような時、
親子関係には介入せず、
「みんな仲良く」「愛ある家族」みたいな徳目標語を掲げても
何の対策にも解決にもならないように思います。
むしろ親子関係に介入し、
一時的にでも子どもを親から引き離し、
親子別々にカウンセリングやケアを行い、
親子関係を具体的に組み替えていかなければなりません。
関係を変える、社会の仕組みや制度を変える。
関係を変え、仕組みや制度を変えながら、
新しい関係や仕組みを支える、新しい良識を生みだし、根付かせていく。
なぜそういう風に問題解決の道筋を考えていくことができないのでしょう?
人間関係や社会の仕組み、制度を変えないまま、
かつての徳目を復興することによって問題解決を図ろうとする、
それで問題を解決することができると考える発想。
これこそが保守主義の発想なのでしょう。
だから、保守主義はいつもアナクロニズムに陥ってしまうのです。
社会の変化に対応して、
人間関係や社会の仕組み・制度を改良し、
新しい良識を生みだしていくという創造力が不足している。
…と、安寿の妄想は、果てしなく暴走していく…
幼い子に「嘘をつくと舌を抜かれちゃう」という
他罰的な説明で善悪を教え込むのは仕方ないと思うんです。
でも、大人の世界、
ましてやこの世界の理を語っているはずの宗教が、
他罰的な倫理観で満足しているのは、
私としてはちょっと物足りないのです。
真言宗は密教だから、
その奥義は簡単には説明できないのかもしれませんが、
だからと言って、庶民向けの説明が因果応報の説明に終始するならば、
奥義と一般向けとのギャップが激しすぎるような気がします。
このギャップをどちらの側に寄せて修正するのか、
仏教からいかにして祈祷的な要素を抜き去っていくかが、
おそらく鎌倉新仏教の課題だったのではないかと… ☆\(ーーメ) ホンマかいな?
福沢諭吉の時代は
「一身独立して一国独立す」のナショナリズムが時代を先取る精神でしたが、
現代は
「一身独立して一国を超え、新たな枠組みを生み出す」人が
諭吉の精神の後継者と言えるのではないかしら。
だから多くの宗教でシンボライズされた戒めがあったり、
幼い子に、嘘をついたら舌を抜かれちゃうと、まずは恐怖を煽ったりするのかもしれません^^
あたしみたいなデキの悪い子が、
抽象的な概念を理解するまで待ってられませんということでしょう^^;
他罰的なほうが生きていくうえでは身軽だし、人は本能的に望んでる気もしますね
お正月に諭吉先生の「学問のすすめ」を読みましたよ
(学校であまり推奨されないのは、ちょっと国粋的だからかな^^?)
で、今の社会は、かなりバージョンアップしてるなあと思いました^^
これからさらに時間をかけて、理想の社会に近づけたらいいですね