Nicotto Town



既に一度や二度の恋愛を経験したりする年齢の人は


既に一度や二度の恋愛を経験したりする年齢の人は
カンボジアで何があったのかを常識として知ってなければなりません。

日本のマスコミが世界で此れだけ騒がれて大きく報道した事を
何故日本ではしなかったのか。

朝日新聞が何と報道したのか。其の本当の実態はどうだったのか。
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ポルポト派を”優しい”と表現した朝日新聞のトンデモ記事
http://blogs.yahoo.co.jp/torakyojin88/44342602.html
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(⁰︻⁰) ☝その実態は本当はどうだったのか。

☆中国共産党革命の毛沢東思想を啓蒙した
ポルポトがカンボジアでやった事。
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ポル・ポトの大虐殺
~総人口の1/3を殺し尽くした戦後最大級の虐殺~
中略
>ついに放たれた狂気 *

やがて、膨大な軍事費と甚大な被害に疲弊したアメリカは、ベトナムから完全撤退することを決定してしまう。これは、言わば、敗北宣言にも等しいものであった。1975年、アメリカ軍が撤退してしまうと、後ろ楯を失ったロンノル政権はたちまち崩壊していった。
    

 そして、これに代わるように政権を握ることになったのが、クメール・ルージュ(赤いクメール)と言われるポル・ポト派だった。かくして、恐るべきパンドラの箱は、開かれたのである。ギリシア神話で、女神が、誘惑に負けて開いた瓶からは、ありとあらゆる災いが放たれ人々を不幸のどん底に追い落とすという話が現実のものとなったのだ。

>1975年4月17日、その日が恐怖政治の始まりだった。
この日から丸4年間、狂気と破壊、殺戮と憎悪の嵐がこの国に吹き荒れるのである。

今まで常識と思われたことが一切通用しなくなっていくのである。
この時、まもなく、空前絶後の大虐殺が始まることになろうとは、
誰が予想し得たであろうか?

>この日、彼らは、トラックに乗って首都プノンペンに入って来た。
彼らは、すべて十代かそこらの兵士で、
黒の農民服姿のまま銃を片手にしていた。
ついに、内戦が終わったと信じた民衆は、
歓声を上げて彼らを笑顔で迎えた。
しかし勝者のはずの彼らには、笑いも開放感もなく、
何が気に入らぬのか不機嫌そうに押し黙っているだけであった。

しかし、まもなく、民衆も歓声どころではなくなった。
全市民を都市から強制退去し農村に移住させるというのである。
その理由にしてもバラバラで、
B52の爆撃があるから疎開させるのだとか、
都市では食料が足りないから農村に移すだけだとか、
退去は、一時的なものですぐに帰って来られるとかいう
支離滅裂な説明がなされるだけだった。
そのうち、強制退去の実行それ自体が冷酷極まりないものになっていった。

>問答無用となり、もし、少しでも逆らえば、容赦なく殺され出したのである。
病院に入院している患者でさえ、ただちに、出て行くように命令された。
何千という病人が容赦なく追い出された。中には、瀕死の重病人もいたが、
彼らは、輸血用の血液や点滴の袋をぶら下げながら運ばれていった。
そして、これに代わるように政権を握ることになったのが、
クメール・ルージュ(赤いクメール)と言われるポル・ポト派だった。
中略

それと、同時に クメール・ルージュがしたことは、
新国家建設のための協力者を集めることだった。
前体制下の将校、医師、教師、技術者、僧侶などは名乗り出るように命じられた。
また、海外に留学している学生にも呼び掛けられたのである。
カンボジアを理想の国家にするために、
君たちの知識、技術力が必要だとかいうスローガンが掲げられ、
その言葉を信じ共感した人々が続々とポルポトの元に集って来た。

これら集まって来た人々は、
プノンペンに帰って国家建設のため働いてもらうとか言われトラックに乗せられた。
しかしこれは恐ろしい罠であった。
彼らは、途中で道路上で投げ出され、
機関銃で蜂の巣にされる運命にあった。
留学半ばにして、海外からわざわざ帰国した女子学生たちも殺された。
彼女らは処刑されるために帰って来たようなものであった。
男女の教員を、ひとり残らず、高い絶壁から突き落として殺してしまったこともある。
中略

* 恐怖の子供兵士 *
>過去からの一切合切を切り離そうとしていたポル・ポト政権にとって、
旧体制文化の名残りでもある人間は、すべて病原菌なのであった。
病原菌は、速やかに駆除しなければならないというのが彼らの理論だった。
踊り子や歌手を始め、僧侶、医者、看護婦、教師、芸術家に至るまで、
技術を持つ者、知識人は、すべて処刑の対象となった。
都市に住みメガネをかけているだけで知識階級と見なされ殺されたのだ。
>その結果、頭の中に旧来の知識を全く持たない
子供だけが重視されるようになっていった。
大人は、信用出来ず、信じられるものは、子供だけになった。
子供は、大人よりも重大な仕事につくことになり、
子供兵士、子供看守、子供医師という特異な存在が
次々と生み出されていったのである。
子供医師の中には、全く字も読めないような子もいた。
彼らは、名目だけの3か月程度のにわか仕込みの教育を受けて、
医療業務をまかされたのである。
子供医師にかかり注射を受けた者の多くは傷口が化膿した。
医療の知識も何もない子供が、
ろくに消毒もせずいきなり注射をしようとするのだから当然である。
多くの者は、傷口が紫色に腫れ上がり敗血症になって命を落としていった。
彼らは手術すら行うこともあった。
しかしその実体は、興味本位の人体実験と何ら変わりのないものであった。
生きたまま柱にくくりつけられ、
面白半分に大きな切り口をつけられ、
傷口を両側に押し広げられて死んだ哀れな患者もいたという。

子どもはスパイとしても使われた。
周囲に誰もいないと油断して、革命への不満を漏らそうものなら命取りとなった。
小さな子供が家の床下などに潜んで聞き耳を立てているかもしれなかったからだ。
うっかり漏らした不平や不満、
それを聞いた子供が、組織に通報しようものなら、
例え、身に覚えがなくても一巻の終わりなのである。
死は日常の中に入り込んでいた。
生活に死というものが常に密着していた。なぜ? どうして? という疑問は感じてはならないのだ。うっかり、英語とかフランス語を口にしようものならそれで殺されるのである。
じゃがいもの袋に入れられて川に沈められるかゴミのように
銃の台尻で殴り殺されるかどちらかであった。
正しいこと、常識あること、理性ある行いなど、
もうどこを探しても存在しなかった。

中略
このような例を挙げると枚挙に暇ない。
ポル・ポトが支配していた4年間は、まさに、
このような行為が日常茶飯事に起きていたのである。
民衆はポル・ポトに従うしかなかった。
そして、彼の手先となって殺戮を繰り返す少年兵士に怯えた。
彼らはほとんどが13才程度の子供で、
徹底的な洗脳によってポル・ポトを神とあがなう狂信的集団に変化していた。
命令があれば肉親でも殺せる集団でもあった。
http://www.cosmos.zaq.jp/t_rex/works/works_8_d.html
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此れは人事でない。

日教組は子供達に自虐史観を植え付け
朝日新聞の書いた「捏造歴史を事実」として教え込んだ。


今も教育現場で彼らの手によって反日洗脳教育は
行われているのである。

       
 

     




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