宗教について考えてみたわけです。
- カテゴリ:日記
- 2015/02/05 00:06:20
もう30年くらい前になるだろうか。ある月刊少女漫画誌で「エイリアン通り」という作品が連載されていた。中東の国からアメリカに留学してきた美形少年が主人公で、いろいろな事件が起きるのを、友人たちと解決してゆくというような物語だったと思う。その中で、今でもぼくの心に残っているセリフがある。イスラム教内でのスンニー派とシーア派の対立に巻き込まれた主人公が、お目付役というか年上の友人というか、そういう立場の青年と会話する中で「宗教は人を縛るものではなく、人を救うものだ」という父親の言葉を思い出す場面(・・・だったと思う(^^ゞ )
イスラム教。キリスト教。仏教。世界三大宗教といわれるこれらには、それぞれに差異はあるが、根本的に共通する一点は、まさしく「宗教は人を縛るものではなく、人を救うもの」ということであるだろう。でなければ、何千年もの歳月、これほどまでに世界中に広まる事ができただろうか?細かい教義のいちいちを比較検討するにはスペースも時間も足りないし、ぼくがいまここに書きたい趣旨でもないので割愛するけれど、本来、宗教の根本は「ひとのいのちの救済」というものを「目的」にするものであって、それを何かの「手段」にするものではないはずだ。
「西洋的価値観の押しつけを脱却して、真のイスラムの教えに根差したイスラムの国を建国する」という集団の主張は、それはそれなりに高邁な理想であり、ヨーロッパ列強に支配を受け続けてきた人々にとっては渇仰に近い願いでもあるのかもしれない。だが!その為には自爆テロも辞さない、他国の人を見せしめに殺しても構わない、というような「ひとのいのちを手段として使い捨てる」ような思想・行動が、本当に「慈悲深いアッラー」の意志に叶うことなのだろうか?
唯一絶対の預言者であるムハンマドは、確かに、「地上の支配者」である国家権力に対して「闘争」を挑み、人々に「戦おうではないか」と呼び掛けはした。だがそれは「対話を拒絶し、武力で人々を支配しようとした王権」に対抗するためではなかったか?それはとりもなおさず、相手を「対話のテーブルに着かせるため」の選択ではなかったのか?
テロそのものを「目的」とし、対話による交渉を拒否し、人の命をその「手段」に使い捨てるような「イスラム過激派」のやり方は、どう考えても「本来のイスラム」の精神を踏みにじるものではないのか。かつて狂人ヒトラーに率いられたナチスと同じ過ちを犯しているとしか思えない。だから、敢えて、言わせてもらうことにする。
「イスラム」とか名乗ってんじゃねえ!!このキOガイどもが!!!
























僕が尊敬し、信奉する日蓮大聖人が「体曲がれば影斜めなり」という
深い戒めの言葉を残してますが
まことに「一念」の狂いが「行動」の狂いになるんですねえ・・・
恐ろしい事だと思いますよ・・・本当に。
なんとしても、平和な世界を築きあげていきたいものですね。
ほんとうに、そう思います。
いま、ああやってテロを行って、当たり前のように人の命を奪ってる連中にも
ただ無心に母の胸に抱かれて眠っていた時期があったわけで・・・
どこで、いつのまに、狂ってしまったのか・・・><
未来を目指し、未来に生きる子供たちが、決して狂ってしまわないように、深く深く祈りを込めたいですね・・・
「宗教は人を縛るものではなく、人を救うものだ」
なるほど~><
そうでなくてはいけないんだなあ~と思います・・・・
世界の平和が早く訪れますように~(>人<)
間違えた学を持つと どこに向かっていくのでしょう…とても怖く悲しいです
せめて子達には人道的な道を学を歩んで行ける様、自ら成長しつつ教育したいです。