ドラマ【軍師官兵衛】
- カテゴリ:テレビ
- 2014/11/17 15:31:36
【感想】ついに官兵衛が天下人の座の争いに討って出る? しかし、結局天下は取れないことはわかりきっているのが、歴史ドラマの無情なところですよね。秀吉の死が1598年8月、関が原が1600年10月ですから、この間2年に、京では目まぐるしく政権争いが続いていたことになります。流れ的には、秀吉の死→諸将帰国→家康の挑発による緊張→一旦和解→利家の死→光成襲撃事件→三成蟄居(今ここ)という感じです。今回如水の出番はあまりなくて、文治派と武断派の間に緊張が走った時、利家を訪問して和解を勧めたところくらいでしょうか。これが本当にあったことかどうかはわかりませんが…。三成襲撃事件はとても有名な史実で、逃げる時に女装していたとか、敵の頭領である家康の屋敷に逃げ込んだというエピソードが残っていますね。ドラマでは女装まではしていませんでしたが、三成の女装見たかったなぁw あと、家康の屋敷というのは伏見城のことで、元々は秀吉が建て、最期を送った城でした。その前のシーンで、秀頼と淀が大坂城に移り、家康が伏見に追いやられるという件がありましたが、その頃から家康は伏見城に起居していたということでしょうか。伏見といえば京都なので、五大老の1人として京都の政務を取り仕切っていたんでしょうね。このドラマでは三成は主人公の息子の敵役なので、性格悪そうに描かれてますが、どんなに悪そうでも後に関が原で死ぬことになると思えば、何だか憐れに見えてしまいます。襲撃事件の後は、三成が責め負わされ、佐和山に蟄居することになるのですが、ここで何か違和感を覚えるのは私だけでしょうか。三成に味方するわけではないですが、彼は法律、盟約、秀吉の遺言などは全部守らなければならないという堅物で、彼自身は責められなければならないことは何もしていないはずです。したとすれば、あまりにそういう文言ばかりを重視し、功労を挙げ疲弊しながらも豊臣家のために働いてきた武断派の武将たちを蔑ろにしたという失策だと思います。その責めを負って…というのならわかりますが、責めを負うことになったきっかけが、三成襲撃事件というのがどうにも解せません。どう考えても襲撃した方が悪者だろ…と思うのは、平和ボケした現代人の考えることなのでしょうかねぇ。しかし、襲撃事件以後、襲撃した側が何か責めを負ったという話はどこにもないのです。やはりこの事件の調停をしたのが家康であり、襲撃側の武将は家康が婚姻などで関係を結んだ大名家だったからなのでしょうか。となると、まだまだこの時点では、日本は法律よりも力関係がものを言う戦国時代だったと言わざるを得ませんね。また、もう1つ糸のことについて言及したいのですが、ネタバレになってしまうので、まぁそろそろ次回あたりにはやりそうだし、次に持ち越すことにしますw