Nicotto Town


うみきょんの どこにもあってここにいない


北斎展 3


 ところで、この八章 にあった、「百物語」シリーズ…、怪談をする夜会の題名がついている、この絵は、おそらく百枚刊行するつもりだったのだろうけれど、五枚までしか刊行され ていない。このシリーズも好きな作品。たしか北斎を知ったわりと最初の頃に興味をもった作品だ。そのあたりのことも、以前書いているから、ほとんど省略す るけれど、《百物語 こはだこへいじ》。これだけ少しふれたい。そして、これも生で観るのは二回目で、一回目の時にかなり詳しく書いているので、引用す る。
 「そして“こはだ小平二”だ。小幡小平次は、妻と不義密通した相手に沼で殺され、怨霊となって二人を執り殺した。絵では蚊帳の上部に小平二 が骨になった手をかけ、上目づかいで、うらめしやといっている感じ。蚊帳や周りはおおむね緑と黒で、手をかけた蚊帳の縁が赤い。これは半ば骸骨になりつつ ある顔が、おおむね赤なので、絶妙のバランスだと思う。緑、そして黒の蚊帳が、顔の赤と接点を持っているゆえの縁の赤。そして顔が赤というのは、皮膚があ ちこちめくれ、たれさがり、筋肉の赤い筋が見えている、眼も血走っているから。リアルに腐りつつある半ば白骨化した顔…。文章にしてしまうと、かなり凄惨 な感じだろうが、こちらもやはりどこかおかしい。怨念をもって現れているはずなのに、怖いというよりも、ひょうきんな感じのほうが強いのだ。それは眼がた れているからかもしれない。あるいは怖さと笑いというのが、実は近しいということなのか…。」(二〇一〇年十月十五日)
 奇しくもちょうど四年前 の今頃だった。この時は、そう、リアルさはもちろん感じていたけれど、おかしさのほうが勝っていたような気がする。だが今回は…。おそらく刷りの状態がこ ちらのほう、ボストン美術館所蔵のもののほうが、良かったからだろう。筋肉に浮かぶ赤く細く描きこまれた線、そして頭部に生え残った毛の逆立つ一本一本の 鮮明さに、思わず寒気がした。絵をみてこんな風にぞっとしたのは初めてだった。血走った眼はあいかわらずどこかおかしみを湛えていたけれど、その血走り方 が、怖かった。実は近しいどころではない、おかしみと恐怖は表裏一体であるということを、如実に伝えているのだった。
 第八章は摺物と稀覯本だった。また興味が薄れ…と思ったら、後で調べたら一七九八年~一八一三年、一番後でも一八二五年の作品たち、つまり若い頃のものだった。それでも、もはや素通りすることなく、いちおう観てまわったけれど。
  そして第九章、これが最終章。「肉筆画と版下絵・父娘の作品」。一番最後にあるのが、北斎の娘、応為(お栄)の《三曲合奏図》だった。多分生で彼女の作品 を観るのは初めてだ。なるほど北斎と似ているけれど、もっと女性が柔らかい、生々しい。すぐれた作品だとは思ったけれど、単に私が人物画を好まないせいな のか、それだけだった。心が揺さぶられた、というところまでは…。
 北斎の肉筆画《柳に烏図》(一八四一年)。また風だ。風になびく柳。柳は風を 描くのによく似合う植物だ。あの繊細な細長い、小さな葉たちは。その近くを十四羽の烏が飛ぶ。落ちるように飛んでいる。踊るように飛んでいる。あるいは昇 るために飛んでいる。口をあけた姿が、どこか鷹や文鳥たちを思わせるが、眼が黒い身体に溶け込んでいる、同じ色合いなので、少し印象が違う。飛ぶ姿、落ち る姿、まっすぐに進む姿、身体をひねる姿、それらさまざまな仕草を、滝という水のさまざまを描いたように描きたかったのではなかったか…。そんな風に感じ た。あるいはここでもまた、表裏一体を、飛ぶ姿、落ちる姿に、わたしは見出していたのかもしれない。
 ほかの浮世絵に対しては、またどこか、これ ほど摺りの状態が良くないかもしれないけれど、またいつか観ることができるだろう…。わたしはそう思っていたようだった。そう、この肉筆画を前にして思っ た。この絵は、おそらくボストン美術館にゆかないと観れないから。たぶん実物を生で見るのは、これが最初で最後だ。けれどもほかの浮世絵たちとの出会いも また一期一会なのだと思い至った。ボストン美術館所蔵のもの、だからというだけではない。厳密にいって、浮世絵もまた、一枚一枚違う。保存状態のことなど もあるだろう。初版であるとか、何版か重ねてあるとか。それだけではない、観る私もその都度、また変わるから。《百物語 こはだ小平二》を観た四年前のわ たしと今回のわたしが違っているように。こうして観ていること自体、雲を見ているように、またとない機会なのだ。
 そんなことを考えながら、後ろ髪を惹かれたけれど、会場を出た。電車の中で、図書館で借りている『小泉八雲集』(上田和夫訳・新潮文庫)を読む(この本は、後日、結局購入した)。
  焼津の盆過ぎの荒れた海。「白波がしだいに高まってくる。その動きに、わたしはすっかり心を奪われてしまった。そうした動きの、なんとすばらしい複雑さ ──が、また、なんと永遠に新鮮なことであろうか! その五分を、誰がじゅうぶんに描きうるだろうか。二つの波が、まったく同じように砕けるのを見た人間 が、かつてこの世にあっただろうか。」(「焼津にて」)
 これは海を、雲を前にして、わたしが思ったことでもあった。同じように砕ける波はなるほ ど見れない。けれども、同じように考える人に会うことはできる。あるいはそう思ったかもしれない。けれども、この時は、こんな一期一会もあるのだと、符牒 のようで、嬉しかった。わたしに語りかけてくれるようで。特に波といえば、やはり、《冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏》の、あの波のうねり、波しぶきを、どう しても、思い出さずにはいられない、そんなことも重なって。




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