Nicotto Town


小説日記。


鏡の中の狂想曲【1】新連載

# - 1



「ずっと、一緒に居たかった」






「おや、待ちくたびれてしまいましたよ」

 喫茶店のようなドア鈴が軽快に響いた。
 木造の大部屋。ダイニングキッチンのカウンターには、中を赤い液体で満たすワイングラスを片手にコーヒーメーカーと睨めっこする四十代前後の男性が佇んでいる。
 まるでバーテンダーのような格好だ。背は百八十センチを超すだろう。
 プラチナブロンドの髪をゆったりと腰まで伸ばし、一つに結っている。
 優しげな笑顔に合う明るい声。薄透かしの入ったフチなしの眼鏡の奥で、細い瞳が俺を見ていた。

「すみません……ちょっと寝坊してしまって」
「ようやく涼しくなって来ましたね。寝床が恋しいのは良くわかります。素直で宜しい」

 外はどんよりした曇り空だ。
 秋の初めに多い、今にも愚図り出しそうな、ジメジメした陽気。湿気のせいで髪がくしゃくしゃになってしまった。
 櫛を入れても入れなくても、クセの強い猫っ毛は言うことを利いてはくれないのだけれど。

「今日はどうされたんですか。急ぎの仕事なんて、久しぶりですよね」

 突っ立っていた入口から移動して、ダイニングに置いてある二掛けのソファに歩み寄る。壁際に置いてあるテレビにはお昼のワイドショーが流されているが、あの人が見ていた様子は無い。
 ガラスのローテーブルを挟んで向かい合わせた二つのソファには、それぞれ白っぽい毛とやや灰色がかった毛のカバーが掛かっている。白い毛の窓際のほうに座ろうかと思ったが、なんとなく手前のドア側にあるソファに腰を下ろした。
 いつも気になっているのだが、このソファに掛かっているカバーは何の動物の毛皮なんだろう。手触りの良さ的にシルバーフォックスか、ウサギか、チンチラか……はたまたミンクか。
 可哀想だとは思わない。自分なりに割り切って生きているつもりだ。
 生きるために彼らを屠殺するのは、既に食物連鎖のサイクルに組み込まれた絶対のシステムだ。可哀想だと憐れんでも、彼らを救えるわけではないだろう。
 ましてやその怒り、憎しみ、恨みつらみを、受け止め切れるとでも言うのか。俺には絶対に無理だ。
 だから、可哀想という言葉はどうも苦手だ。憐れむだけタダなんて、相手に失礼なんじゃないか、と時々考えてしまう。
 何より、一度味をしめてしまったらそうそう簡単に手放したりなんて出来やしないのだ。
 などと、ひとしきり心の中で広げられた風呂敷を畳みつつ、返ってくる言葉に耳を傾けた。

「ええ本当に。彩里(いろり)さんがいらっしゃってからお話しましょう。現地に向かう前に、少し準備が必要なんです。長旅になるかもしれません」

 長旅なんて、またまた久しぶりじゃないか。
 この人は何でも急に言い出すものだから最初こそ戸惑ったが、今は随分慣れてきた。しかし長旅のための荷物を持って来いと言われなかったから何も準備していないのだが……この人のことだし、何か考えがあるんだろう。

「それより何してたんですか、アルベールさん」

 考え事は止めだとカウンターに振り返る。アルベールはまだワイングラスを手にコーヒーメーカーと睨み合いをしていた。

「実は……コーヒーをワインに変えることは出来ないかと思いまして。水をワインに変えるのは造作もないことですし、これを機に他の飲み物をワインに変えることも出来ないかと思ったのですが、〝コーヒー味のワイン〟が出来てしまったんですよ」
「……未知の味ですね」
「お飲みになりますか?」
「遠慮します」

 革命的な味だろう。ワイン単体にも味がついているのに、苦味を持ったコーヒーの香りがついているなんて、あまり想像したくないものだ。
 気持ちはわかるが、結末に思い至らなかったのだろうか。いや、だからこそ元は水である液体をワインに変えられると考えたのか。
 この理屈を通すと、麦茶やコーラなどでも同じような悲劇が起こりそうだ。まあ、飲めないことは無いかもしれないが……あまり進んで手を出してみたいとは思えない。
 ファミリーレストランでジュースの混ぜ合わせを大喜びでやっている学生たちのバカ騒ぎを思い出して、少しだけ嫌な気分になった。

「アルベールさん。今回の仕事で向かう場所だけでも教えてもらえませんか」

 この人は聞かないと行き先を教えてくれない。だから、思い出した時は絶対に聞かないと後悔することになる。

「構いませんよ。お二人にコーヒー味のワインの試飲に付き合っていただけたら、ですが」
「……それ、最初から俺たちにも飲ませるつもりだったんでしょう」

 被害者が一人だけでないなら良しとしよう。彩里も巻き添えだ。
 アルベールはやたらと楽しげな笑みを浮かべたまま、棚から新しく取り出したワイングラスにコーヒーメーカーの中身を注いでいく。よくよく見ると、確かに茶色がかっているようだ。
 血のような色というよりかは、乾きかけの血だ。
 目の前に運ばれてきた三つのワイングラスからは、芳醇な葡萄の香りに被さり、複雑に絡み合うようにして、コーヒー独特の苦味を含んだ不思議な香りが漂っていた。


*****


鏡の中のラプソディ




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