6月26日にNHK・NW9で取り上げられた、「恵恵(フィーフィー)~日中の海を越えた愛~」 一冊の本。
それは日本人男性と中国人女性が手を取り合って歩んだ結婚生活を記した手記です。
その時、日本と中国の関係は、悪化の道を辿っていきます。
北京で最初の反日暴動が起きたのは2004年8月のことです。
その4カ月後のクリスマスに、関西学院大学のキャンパスで、
日本人の青年・健太と中国北京からの女子留学生・恵恵が出会いました。
キャンパスに集う大勢の中から互いをみつけた二人は恋におちます。
「その晩も恵恵からの連絡が入ってきた。ただいつもと違って、思い詰めた様子が伝わってきた。」
翌日、健太はこれまで一度も訪れたことのなかった北京に、たった一人で文字通り飛んできます。
しかし、恵恵の片側の乳房は失われました…。
更に、再発を抑える為、四か月にわたる抗がん剤治療が始まりました。
悲しむ恵恵に健太が用意したのは、中国で永遠の愛を意味する99本の薔薇…。
病室で二人きりの結婚式を挙げました。
その中、二人の関係を創り上げるきっかけの恵恵の言葉がありました。
「私達はね、言いたい事があったら、絶対に言葉でそれを相手に伝えないといけないの。
黙っていたら一時的にうまくいくかもしないけど、それは二人の問題を放置する事になるの。」
「社会で生活する上で全て本音で生きていくのが無理だとしても、せめて夫婦の間では本音で生きていきたいの。」
2年後の2007年9月、一度は諦めた結婚式を二人が出会った関西学院大学のランバス礼拝堂で行われました。
そこで恵恵さんはこのように挨拶をしたのでした。
「健太、あの日、ここでわたしに話しかけてくれて、ありがとう。
わたしと結婚する決心をしてくれて、ありがとう。
わたしの病気のことを知って、すぐに北京に飛んできて、そばにいてくれてありがとう。
手術室の外で渡した婚約指輪を握って、わたしのためにずっと祈り続けてくれて、ありがとう。
もはや倒れそうだったわたしの両親を支えてくれて、ありがとう。
痛みで眠れないでいるときに、何時間も何時間もずっとマッサージを続けてくれて、ありがとう。
化学治療で苦しんでいるわたしのそばでずっと笑っておしゃべりをしてくれて、ありがとう。
髪の毛を失ってしまったわたしのために、自分の髪を全部剃ってくれて、ありがとう。
この病気だとわかった時は、神様はなんて不公平ですかと何回も心の中で聞きました。
しかし、今はわかりました。神様は凄く公平です。この世界で一人しかいない
最高の健太を私の主人にしてくれました。私は幸せです。」
(この文章は、私の好きな小説「ラブレター」 浅田次郎著【『鉄道員』(ぽっぽや)に収録】を彷彿させます)
二年後、がんは肝臓へと転移…。
無くなる間際、昏睡状態に落ちた恵恵に、救急車の中で健太は手を握り、語りかけました。
「どれ程感謝して尊敬して、愛しているか、途切れる事無く、話し続けた。
話したい事はあとからあとから、湧いて出て来た。その時、酸素マスクを押し当てられて、
何の反応も出来ないはずの恵恵の目から、涙がこぼれた。
私もそれを見て、泣いた…。」
恵恵は、残念ながら、2011年6月に鬼籍に入りました。
「恵恵 ~日中の海を越えた愛~」は、日中間がもっとも厳しかった七年間に、共に生きた二人の物語です。
健太はが亡くなったあとも、今も亡き妻・恵恵の両親とともに、北京で暮らし続けています。
とことん話し合い、向き合い続けることで、
互いの尊敬と感謝の心を育んだ2人にとって、国の違いなどささいなもの…。
上記の文章はかなりのネットとNHK・NW9の引用と少しの加筆です。
文字にすれば、たったこれだけで、想いも伝えきれないかもしれないけど、
今でもNHKのホームページもNHK・NW9ピックアップ動画で見る事が出来ますので、
見逃した方は是非とも見てください。涙無しでは見れません。(ちなみに、私は号泣状態でした…。)
近々本も購入しょうと思います。
真実の愛ってすばらしいですね。
なんと言ったらよいのか・・・
運命は残酷なものだと思うけれど、二人の間に生まれた愛は、いつまでも いつまでも
健太さんの心の中で生き続けることでしょう。
そして、おすそ分けしてもらった私達の心の中にも・・・
この二人の愛の形は決して文字では書き綴る事の出来ないくらい壮大な夫婦愛
だったのだろうと思いますが、多分私の想像をはるかに超えた愛なのでしょう。
死を覚悟しながら、それでも・・・・・・ ごめんなさい ちょっと書けないです(涙が邪魔で・・・)
とても興味を持ったので私も本を探してみます^^
涙が止まらなく・・・。人間の死は不可避であり、愛する人
とも必ず別れが来るとわかっていても受け入れるのは
大変な事と今更に強く思います。これは本当に素晴らし
い愛の物語と思います・・・