幸せを感じること
- カテゴリ:イベント
- 2014/06/19 16:56:14
人が幸せを感じる時って、どんな時だろうか。
夢をかなえたり一歩近付いたりすることができた時
恋が成就した時
友人や家族と楽しい時間が過ごせた時
欲しい物を手に入れた時
仕事で成功した時
しかし、夢をかなえても次の夢が出てくるものだし、
恋が成就してもそのままずっと一生幸せでいられるカップルもほぼいないし、
楽しい時間はすぐ過ぎ去っていくものだし、
欲しい物はどんどん出てくるものだし、
一度成功してもそれから失敗しないとは限らない。
幸せとは実に刹那的なものであり、
そうでない時と比較して判断するしかない。
時間軸に左右されるものであると言える。
また、他人の状態も判断の基準となることが多い。
1つには、あの人のようになりたいという憧憬。
それを原動力にするか、あきらめるかにより、
かなり精神への影響は違ってくる。
また、あの人のようにはなりたくないという憐憫。
自分はあそこまで酷い状態ではないのだからがんばろうと思うか、
あんな人もいるんだからそんなにがんばらなくていいかと思うかで、
これもまた精神への影響は違ってくる。
つまり幸せとは、自己の時間軸と他人との比較、
それを鑑みた上での積極性と消極性のバランスで成り立つ、
相対的かつ不安定な精神性の問題と言える。
上記を考慮した上で私が「幸せを感じること」について考えると、
とても不幸というわけではないが、先行きの不透明さや
自分の置かれている現状を見ると、とても幸せとは言えない。
現状猫を可愛がっている時くらいしか幸せを感じることができないのである。
つまり結論としては、
世界の猫に危害を加える人間すべてが
呪 わ れ ろ
自分の過去や他人の状態と、自分を比較しない人は、
過去の記憶がなくて周囲に誰もいない仙人のような生活をしている人しかいないと思うのです。
多かれ少なかれ人は他人と自分を比較し、比較した上で
がんばろうというハングリー精神を導き出すか、
自分はこれでいいやというよくいえば謙虚、悪く言えば消極的な考え方で、
自分が幸せかどうかを判断しているように思えます。
もちろん「これがいい」と思い清貧を選ぶ人もいるかもしれませんが、
それはそれで自分の理想を追い求めた形だと思います。
つまり私の言葉が足らなかったですね。
憧憬も憐憫も絶対的なものではなく、個人的な価値観による相対的なものです。
お金はないけど家族と賑やかに暮らせた方がいいと考える人は、
仲のよい家族と暮らせることに、価値を見出すでしょうし、
独身を貫き自由な暮らしがしたいと考える人は、
お金や恋人に価値を見出せないでしょう。
「違う」と感じるニャンデイさまの気持ちもとてもよくわかります。
ニャンデイさまは内に確固たる自分の法律があるのですね。
近所に野良猫がたくさんいたので、今まで私はたくさんの猫を飼ってきました。
行方不明になってしまった猫は数知れず、息を引き取るまで見守った猫もかなりいます。
ちょっとの努力で幸せにしてあげることもできれば、
力が足りず不幸せにしてしまったこともあります。
今いる猫たちだけは、少しでも幸せにしてあげたいです。
> めぐみん
あっはい
上記の言葉が、あてはまりますね。
幸せとは、自分の心がそう思うのだったら、そうだと思うし。
人から見たら、凄い状況でも、何とか日々暮らしているなら、それで良いと
思うし。
比べるのは結局虚しい。
原動力として、自分を発奮させる人も、中にはいるでしょうが。
恵まれた人や、幸せそうに見える人を妬んだりするのは、どうも、違うって
気がします^^;
綺麗事かもしれないけれどね。
結構、こう言う人が多いのも事実ですが。
他人との比較から、一歩離れたら、な~んだって思えるのでしょうね。
さしたる努力もしないで、美味しい結果だけ見て、文句を垂れる人が、
私的には、一番、駄目じゃないかな。
猫と一緒の時間。
犬でもね、その時、もたらされる至福感、失って見て分かりましたよ。
いてくれる・・・側に存在するだけで幸せだったのだと。
どうぞ、猫との時間、味わって愛しんでね(=^・^=)