2014年05月25日の讀賣新聞
- カテゴリ:日記
- 2014/05/26 10:48:16
【2014年05月25日の讀賣新聞】
特に目新しいことが書いてあったわけではないが、
速記の現状についてよくまとめてあった。
速記について参考になる記事である。
なお、5月25日の速記技能検定試験は、
残念ながらお休みした。
10回連続の3級合格は、達成できなかった。
私は、
どんなに機械が発達しても、
今後も、
速記の普及、
速記の学習・練習・研究・改良、
速記者の養成、
速記技能検定試験の施行、
現場の速記は
継続していかなければならないと考えています。
〔[政ひと]国会速記者…記録の番人 機械及ばず〕
〔驚異の分速360字〕
〔衆議院本会議場の速記者席で、発言を記録する丸山充世さん(20日)〕
〔丸山さんが記録した速記録。半紙の束に独特の符号で書き留めていく〕
静寂に包まれた衆議院本会議場。
開会10分前に速記者席に座り、
その日の発言者を確かめる。
議員らが姿を見せ始めると、
軽く手を動かし、
出番に備える。
20日午後1時、
衆議院本会議が開会すると、
速記者の丸山充世さん(28)の右手が精密機械のように動き始めた。
議場中央の演台に登壇し、
委員長報告をする小渕優子衆院文部科学委員長の声を、
同時進行で半紙の束に書き留めていった。
平仮名や漢字は使わない。
50音に相当する独特の「符号」を駆使し、
0・9ミリ芯のシャープペンシルを一心不乱に走らせる。
1分間に最速360字という筆記スピードは驚異的だ。
速記に関心を持ったのは高校時代。
テレビの国会中継に映し出された速記者に目が留まり、
「政治の舞台に一緒にいる存在感が輝いて見えた」。
2004年に速記者を育てる「衆議院速記者養成所」に入り、
2年間みっちり鍛えられた後、
衆議院記録部に採用された。
◇
速記による議事録の作成は、
1890年の第1回帝国議会から始まった。
日本速記協会によると、
国会開設時からの議事録が残っているのは、
先進国では日本だけだという。
1918年には貴族院(現・参議院)、
衆議院ともに養成所が開設された。
方式も両院別々に発展し、
1939年には衆議院式、
1947年には参議院式と呼ばれる速記法が確立した。
「知らない言葉は聞こえない」。
丸山さんが養成所時代にたたき込まれた教訓だ。
国会審議で取り上げられるテーマは森羅万象で、
時事用語だけでなく、
憲法や英語、仏語も学んだ。
それでも、
沖縄出身の玉城デニー衆議院議員が質問の最後に口にした
「ニフェーデービタン」(沖縄の方言で『ありがとう』の意味)が
うまく聞き取れず、
戸惑ったことがある。
お国なまりが強かったり、
声がこもったりする議員は、
速記者泣かせなのだという。
◇
キャリア34年で
衆議院記録部会議録データ管理室長の
進藤真人さん(55)は、
速記者の視点で歴代首相の特徴を解説してくれた。
大平正芳元首相は
「答弁でアー、ウーが多かったが、
それを除くと論旨が明快で、やりにくい印象はなかった」。
宮沢喜一元首相は
「言葉がはっきり、ゆっくりの人だから、
だいぶ楽をさせてもらった」と振り返る。
そんな職人芸の世界にも、
ハイテク化の波が押し寄せている。
衆議院では2011年、
発言を自動的に文字に変換する「音声認識システム」が導入された。
認識率は9割以上を誇るという。
衆参とも速記者の募集は06年で打ち切られ、
丸山さんは最後の採用者となった。
それでも機械は速記者に及ばない。
大きなヤジが飛んだり、
声が重なったりすると判別できないため、
速記者が議場で「見張り役」を務める。
丸山さんは
「機械と違い、私たちは発言者の口元を見ながら記録できる」
と胸を張る。
機械の変換ミスを修正し、
議事録を完成させるには、
今後も人の目を通す必要がある。
「機械の長所を生かし、
最後は人間がチェックすることで、
正確な記録を後世に残すことができる」
進藤さんの言葉に、
「記録の番人」としてのプライドがにじんだ。
【編集、保存も担う】
◆衆議院記録部◆
「議事は、速記法によってこれを速記する」との衆議院規則に基づき、
本会議や委員会の速記、
議事録の編集を担当している。
議事録のデータベース化や管理・運用も担っており、
職員数は約130人(うち速記者は約70人)。
参議院にも同様の規定があり、
参議院記録部が業務にあたる。
議事録は、
1890年の第1回帝国議会から
国立国会図書館のホームページで閲覧できる。
「憲政の神様」と呼ばれた尾崎行雄の発言や、
軍による政治介入を厳しく非難した斎藤隆夫の「粛軍演説」なども、
速記録をもとにした議事録が残されている。
◇
政治を支える様々な人に焦点をあてる新コーナーです。随時掲載します。