日本の歴史 第5回 平城京の時代
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- 2014/05/24 10:22:17
710年、平城京に遷都が行われました。藤原京とは違い、都の北端に大内裏(だいり)
を置いてそこからメインストリートを南端まで貫くというというスタイルは唐の都長安に
ならったものでした。人口は5~10万人で、天皇以下、150人前後の貴族を頂点とする
ピラミッドが形成されていました。経済の面でも唐にならって初の本格的な流通貨幣
である和同開珎(わどうかいちん)が発行されました。
この時代、政治と仏教は密接な関係を持つようになりました。特に聖武天皇は
地方での反乱や飢饉、疫病の流行による社会不安の中、仏教の力で国を守ろうという
「鎮護国家」の思想のもと、国ごとに国分寺や国分尼寺の建立を進めました。さらに
大仏造立の詔(みことのり)を出して東大寺に大仏を建立しました。
律令制では公地・公民の原則のもと、与えられた口分田からの収穫の約3%にあたる
祖を納めました。また、繊維製品または各地の特産物を納める調や、労働の代わりに
米・塩・綿などを納める庸の負担がありました。これらの重い負担に苦しむ農民の
中には口分田を捨てて逃亡する者もありました。また自然災害や人口増加によって
口分田は不足していきました。そこで政府は以下のような政策によって口分田を
増やし、さらに農民の逃亡を防ごうとしました。
①百万町歩(ひゃくまんちょうふ)開墾計画(722年)
口分田不足解消のための開墾計画。
②三世一身(さんぜいっしん)の法(723年)
新たに灌漑施設を整備して田地を開いた者には三世(本人・子・孫)にわたって
その土地の所有を認めました。これは初の土地私有の公認でしたが、期限を
過ぎた田地は公地とすることになっていました。
③墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいのほう)(743年)
身分に応じた一定の範囲で、開墾した田地の期限のない私有を認めました。
「三世一身の法」では、開墾しても将来にわたる私有を認めてないため、
開墾意欲がそがれる結果になったといわれています。
8世紀の政策転換は、以前は律令制の崩壊過程とされることもありましたが、
近年では隋・唐から直輸入した律令を日本の実情に見合うように改変していく
過程と捉えられています。それは真の意味での日本的な律令国家建設過程でも
あるともいえます。
日本での律令国家建設には遣唐使が大きな役割を果たしました。船には
使者だけではなく、多くの留学生や留学僧が乗り込み、国の正式な外交使節と
文化交流使節としての役割を持っていました。彼らがもたらした唐の先進文化は
平城京建設や和同開珎発行などに大きな影響を与えました。
また、この時代には唐だけでなく、新羅や渤海ともさかんに交流していました。
新羅は、唐と連合して百済・高句麗を滅ぼしたのち、676年に唐の勢力を
追い出して朝鮮半島を統一していました。7世紀後半に日本が律令国家建設
進めた時期は唐との国交が断絶しており、新羅は大陸への唯一の窓口として
重要な役割を果たしました。
渤海は698年に建国された高句麗の流れをくむ国で、対唐・新羅の視点から
日本との外交を求めてきました。その後は貿易交流が活発化し、毛皮(トラ・
テンなど)、あざらしの皮、コンブなど多くの北方の文物がもたらされました。
お出かけする元気もなく寝てました。
まるで昔の教科書を読んでるかのように 知ってる語句が出てきました。
それにしてもディオたま 博学@@