日本の歴史 第2回 弥生文化と小国家の形成
- カテゴリ:30代以上
- 2014/05/03 14:20:20
縄文時代の終わりごろから日本列島は徐々に寒冷化し、2千年程前にかけて
平均気温が約1.5度低下しました。森林は大きな影響を受け、豊かな森の恵みに
支えられていた縄文文化は危機にさらされました。そこで日本列島の人々は
大陸で行われていた水稲耕作を受け入れ、農耕社会へと移行していきました。
稲作が本格化して間もなく、大陸からは鉄器や青銅器などの金属器も
もたらされました。鉄は鋤や鍬の刃先に装着され、水田の開発を加速させました。
一方、青銅器は主に祭祀の道具として用いられました。集落は丘陵から平野に移り、
竪穴住居のほかに穀物を蓄える高床倉庫も作られ、人々の生活様式は大きく
変化しました。水稲耕作を行い、青銅器や鉄器と弥生土器を使用することを特色
とする文化を弥生文化といいます。
稲作によって食料の余剰が生まれ、蓄積ができるようになると、貧富の差が生じ、
身分の区別がはっきりしてきました。水田の灌漑施設を作るなど、大勢の人々が
かかわる労働にはリーダーが必要になります。このころ、集落のリーダーは
稲作の儀礼をつかさどり、人々を支配する権力を持つようになったと考えられています。
水や土地などをめぐって争いが起きると、リーダーは戦闘の指揮もとりました。
この時代には防衛のために濠や土塁で囲まれた環濠集落や、丘陵の上に
作られた高地性集落が現れました。およそ40ヘクタールにおよぶ佐賀県の
吉野ヶ里遺跡は弥生時代最大級の環濠集落です。勝った集落は負けた集落を
従え、やがて「国」が生まれていきました。農耕は日本列島に戦争と国の形成を
促しました。
紀元前1世紀ころから紀元2世紀ごろ、日本列島に小国が分立していた様子は
中国の歴史書である「漢書」地理誌や「後漢書」東夷伝からうかがうことができます。
中国の歴史書「魏志」倭人伝によると、3世紀頃の倭では邪馬台国を盟主とする
30あまりの小国連合が形成されていたとあります。邪馬台国は女王、卑弥呼によって
治められていました。彼女は千人の侍女に身の回りの世話をさせ、呪術によって
政治を行ったと言われています。239年、卑弥呼は中国の魏に使いを送り、皇帝から
「親魏倭王」の称号を与えられました。その際、「銅鏡百枚」も贈られたとあります。
卑弥呼は倭での立場を強固なものにするため、魏の皇帝の権威を求めたと
考えられています。
日本史上重要な邪馬台国でありますが、その場所はいまだに特定できていません。
有力な説として「九州説」と「畿内説」の2つがあります。もし九州にあったならば、
当時の小国連合は比較的狭い範囲のものであった可能性が高く、一方畿内に
あったとすれば、小国連合は九州から近畿地方までを含む広い範囲のものとなり、
後の大和王権と直接つながる可能性が出てきます。邪馬台国がどこにあったかは、
当時の日本社会の発展段階を理解する上で重要な意味を持っているのです。
古代人は現代人から見ると意識が狭かったように見えますが、
それほど現代人も進化しているわけでもないかもしれませんね^^;
推理するのも歴史を学ぶ楽しみの一つのような気がします。
卑弥呼はカリスマのシンボルだったのかもですね。
想像するだけで わくわくします・・・。
でも、やはり人間って大きい枠では共有することが出来ないのですね。お話少しそれますが・
チンパンジーさんの方がはるかに理知的で平和的な社会を営んでいるようです。
今日も佳き日で❁
まろ水とぽちどうぞ
九州説 奈良説 等々 ロマンですね~~❤
卑弥呼ってどんな女性だったか、いろいろ想像してしまいますね。