罪と罰Ⅱ【言霊のロンド】3/6
- カテゴリ:自作小説
- 2014/02/23 17:44:57
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どうせ明日も来るだろうと、読みかけだったその本を階段に置いて倉庫を後にした。
何故かその後、徐々に視界が霞がかって、すぐ10センチ先もぼやけて良く見えなくなったので、覚えたての印を結んで視力を調整した。お陰で視界が曇りだした時以上に良く見えるようになり、ますます少女は高揚した。
そのまま真っ先に向かったのはカズサの元で、半分ショック状態に陥っていた脳は開花した印の力を先に彼に見せびらかそうと考えたようだった。
これで、もっと傍に置いてもらえたら。あわよくばそう、思ったのだ。
こんな子供だって、迷惑を掛けないようにもっと役に立てたら。
幼いながらに、彼の役職について痛いほど理解していたから。
「カズサ様!」
大元帥の部屋の戸を叩く。要塞内を自由に歩き回っている子供など、私とヤエ、狂ヰイロリという少し年上の少女と、妾の産んだそれくらいで。
途中、元帥の神宮ハクメイとすれ違ったが、あの人はどうも苦手だ。一体何歳なのか及びも付かないし、何より目が合うと、いつも不気味な笑みを向けてくるから。
だから私は思わず目を背ける。この、何色でもない瞳を。
怖くなる。本能的な恐怖だった。
だって私、知ってるわ。イロリって子の目を抉り出して飾ってるんだって、誰かが言ってたのを訊いたもの。
「ん?ザクラちゃんかい?」
良いよ、入って。と言う声が掛かる前に、少女は扉を勢いよく開けていた。
抱きつかんばかりの勢いで突進し、意気揚々と用意していた台詞を言う。
「カズサ様、私、印が使えるようになったの!」
その時のカズサの顔をよく覚えている。
驚きと戸惑いが綯交ぜになった、複雑な表情だった。
ほんの一瞬だけだったそれが、何故か脳裏に焼き付いて離れない。
「本当かい?今日じゃないか、俺が本を読むように言ったのは」
「でも、早くカズサ様に教えたくて――」
だが、カズサは優しく受け入れてくれた。少女は嬉しくなって飛び跳ねる。
早速披露したのは、壁を透かして向こう側の景色を覗く印の力。
少女は見事に部屋の外から、カズサが机に置いた林檎の数を当ててみせた。
何度やって数を、配置を、置くものを複雑に変えようとも、少女が外すことは絶対に無かった。
カズサは素直に驚き褒めてくれた。凄く。
少女は、はち切れんばかりの満足感を得ていた。カズサに見てもらえた。あまつさえ、褒めてもらった。それだけで十分だった。
だが、少女はやはり、取って置きの印をカズサに披露したくて堪らなかったのだ。
「カズサ様、あのね、私、もっと凄い印も結べるようになったのよ!」
「凄いって、十分さっきのも凄かったよザクラちゃん」
良いから、見てて。
少女は微笑み、その無邪気さと無垢さを際限なく、惜しみなくカズサに捧げた。
しかし、少女は目を閉じ、集中しつつ隠しきれぬ意気揚々さを声色に滲ませながら始めた二度目の詠唱で。
激しい頭痛に襲われた。
「――――ッ?!」
頭を杭で射抜かれたかのような、いやそれ以上の傷みで、遥かなる高みへと昇り詰め見開かれた瞳には、瞬く間に涙が溢れた。
あまりの激痛に膝から力が抜け、崩れ落ちる。カズサが心配して駆け寄るが、それでも声を上げなかった。
絶対に失敗したくない。失敗しない。失敗なんて有り得ない。
そう言い聞かせ、耳元で鳴る風の音に心を委ねた。
交じり合う耳鳴りを無視して鷹となった目を開けば、そこは図書室で見たのと同じ蒼海の果てしない全土。
――やった。また成功した。
断続的に頭を打ち付ける傷みさえ愛おしい。これさえきちんと会得出来れば、私はカズサ様の役に立てるんだわ!
少女は、声もなく痛みに喘ぎながら泣いた。嬉しくて涙を流した。口元には笑みを浮かべ、苦痛に陶酔する。
震える手を差し出した。少女の両目は、蒼い水槽に浮かぶ禍々しい紅い月のようで。
「カズサ様……視て、私の――――〝チカラ〟」
途切れとぎれに発せられた声に、カズサはしばらく動かず立ち尽くしていた。
しかし、すぐに思い出したように少女の差し出す手に、自らの手を重ねた。
刹那、流れ込む。
迸るほどの大空から見下ろす、蒼海の全土がその脳裏に。
少女は繋がりを頼りに、試しに地上へ近づいてみる。カズサにとっては見知った顔ばかりだろう、だが視界で捉えた瞬間流れ込むその者についての膨大な情報は、少女の頭で全て処理され必要なことだけをカズサに与えた。
けれど頭痛は、もっと酷くなっていく。少女は歯を食いしばって耐えた。気が狂いそうになっても、流せるだけの涙を全て出し切ってでも、この力をカズサに伝えたかった。
地を這うように神の視点は舞い、要塞内を自由に飛び回った。やがて大元帥の部屋へとやって来ると、自分たちを見下ろすようにして視点を止めた。
少女は自らが成し遂げたことの満足感に、再び溺れていた。耐え切った。それだけで全身に震えが走る。
手を離すと、少女は今度こそ崩れ落ちた。半ば気絶するように意識を手放す寸前まで、悦びに打ち震え笑みを浮かべていた。
その頬を伝った涙の味は、かつて感じたこともないほどに、甘かった。
*
「――ザクラちゃん」
カズサの声でふと目を覚ました。何も無い暗闇から突然意識が覚醒する。夢のない眠りだった。
ぼやけ、霞んだ白黒の世界でカズサが微笑んでいた。いつもの締まりのない笑顔とは違う、優しい笑顔。私たちに見せてくれる保護者のような暖かい微笑。
結果として、私は視力をほとんど失った。ほんの10センチ先も見通せぬ程に。けれど、視力の低下は三つ得た印のうち一つで補える。
だから、カズサには言わなかった。言えなかった。もし真実を告げて、能無しだと捨てられたら。私は生きていけない。
問題は、神の視点を得ることの出来る印だった。
どうやらアレを使ってから、私は40度を越える高熱を出し、うなされながらこんこんと三日間も眠り続けていたらしい。その間ヤエは鬼のように心配して付きっきりで看病してくれたらしいが、一切記憶がない。本当に泥のように昏睡していたようだった。
三日目の、今は夕方。昼ごろにようやく熱が下がり、ヤエは徹夜明けで椅子に座ったまま寝てしまったらしく、カズサが運んでくれたとのことだった。
「…………ごめんなさい」
三日間動かさなかった表情筋は固まり、何も生み出すことが出来なかった。
だから、ぽつりと呟いた。
「無茶だけは、しないで」
カズサは、淡い微笑のまま。
その日から、カズサは私をもっと傍に置いてくれるようになった。
もうあの印を、使うなと言った。
*