新年早々の愚痴 ☆\(ーーメ)
- カテゴリ:仕事
- 2014/01/04 17:14:00
正月早々、仕事を行っていたら、
正月早々、この仕事をするのがバカらしくなってしまいました。
なぜ、私はこの仕事をしているのだろう…。
収入を得るため…?
単に収入を得るためだけならば、
もっとたくさんの収入を得られる仕事があるでしょう。
社会への貢献、人の役に立つから…?
でも、この仕事は社会に何か貢献しているのでしょうか?
人の役に立っているのかなあ?
たとえば、数学教師が教えている数学って、
人の役に立っているのでしょうか?
数学を役立てる人はごくわずかで
むしろ多くの生徒を苦しめているだけではないでしょうか?
私は大学で統計学を習って、
ようやく行列という数字の操作が、
何の役に立つのかわかりましたが、
それなら最初から統計処理に役立つものとして
行列を教えてくれればいいのにと思ったことがあります。
論理的思考の育成ならば、
何も数学を用いなくてもできるように思います。
むしろ数学のための数学になってはいないでしょうか?
知らなくてよいことなど、
この世には何もないのですが、
興味のまったくない事柄を学んだり、
知ることの喜びにむすびついていない事を教えたりするのは、
教育を受ける方にとっても、教育する方にとっても虚しいものです。
しかも、そのような虚しい教育を成立させるためには、
成績評価や卒業要件といった強制力を伴わなければなりません。
ちょっと考える矛先を変えましょう。
人の役に立つことって、いったい何でしょうか?
賃金が支払われたり、
品物に価格がつけば、
人の役に立っているのでしょうか?
多くの賃金が支払われたり、
高い価格がつけば、
それだけ多く人の役に立っているのでしょうか?
それは単に市場価値があるというだけのことです。
そして、市場価値がある=人の役に立つということではないはずです。
シャドーワークとしての家事労働やボランティア活動は、
賃金評価されませんし、
賃金に換算して評価することが適切なのかどうかもわかりませんが、
少なくても役に立たない仕事ではありません。
実は「人の役に立つ仕事がしたい」という願いが求めているのは、
仕事をしていることの徒労感や虚しさから逃れたいということだと思います。
成果とか手応えとかを感じたいということなのでしょう。
つまり、私は今、
徒労感に責め苛まれているのだと思います。
この種まき・水まきが芽吹くことは、
果たしてあるのでしょうか?
宝くじが当たったら、仕事やめて、
田舎に引っ込んでしまおうと思っている私ですが、
でも、田舎で暮らしていても、
自分が食べる野菜を作ったり、
簡単なアルバイトをしたりするとは思います。
ただ、この社会なんてどうでもいい、
他人の面倒なんかもう見たくないと思っている私がいる。
その思いは日増しに強くなっていくのですが、
そう思って見捨ててしまうと、
もっとひどい社会になるので、
いやいやながらお付き合いしています。
あーあ… ☆\(ーーメ) ため息が多いぞ
うーん 仕事に関しては私もよくそんなことを考えます
個人的な満足感を感じることはあっても
大きな歯車のひとつ
私じゃなくてもいいんじゃないかな
卑屈な気分のときは 私じゃないほうがいいんじゃないか、とかw
結局は 社会と繋がっていたくてここにいるのかもしれないな、って思ったりします
たとえば 宝くじが当たっても きっと仕事はやめないと思う
気分的なものはちがうだろうけど。。