『ハンナ・アーレント』を見てきました。その2
- カテゴリ:映画
- 2013/12/27 12:27:21
とはいえ、この映画は、
映画が持つ題材をうまく扱えていないようにも思いました。
自らの思考で考えることの大切さと、
それが周囲からの孤立という代償を余儀なくさせるというテーマが、
しかし、アーレントと彼女を取り巻く人々との人間関係のドラマに埋もれてしまうところがあります。
人間関係のドラマがテーマを際立たせるような役割を果たせていないのだと思います。
アーレント自身は、
とても社交的な人物で、
周囲の人に細やかな気配りができ、
夫にも深い愛情をそそいでいる人なので、
彼女の後半生の人間関係を、
テーマとは無関係に伝記的に描いてしまうと、
思考することの代償として余儀なくされる孤立と孤独というテーマが
うまく浮かび上がらなくなってしまうのでしょう。
映画の中でも描かれますが、
アーレントに考えることの大切さを教えたドイツの哲学者ハイデガーは、
(ちなみに彼女はドイツで、
ハイデガー、フッサール、ヤスパースといった、
20世紀を代表する哲学者たちを指導教授にしています。)
しかし、アーレントと不倫関係にあったにもかかわらず、
後に、ナチスへ入党し、公然と支持を表明します。
そして敗戦後は、沈黙を守るようになります。
そんなハイデガーに、
アーレントは戦後、ドイツに会いにいくのです。
ハイデガーは言います。
「再会によって、新たな関係が始まる」と。
しかし、アーレントから言わせれば、
「ハイデガーさん、
考えることの大切さを教えたのはあなたではなかったですか?
あなたは考えようとする私を愛したのではなかったですか?
そんなあなたがナチスへの支持を表明できるだなんて、
あなたにとって考えることとは、その程度のものだったのですか?
時代と共に無思考の権力に擦り寄り、
時代が変われば、
都合よく沈黙してしまえるようなものなのですか?」
と問い詰めたいところでしょう。
しかし、かつて愛し、
今も惹かれているところがある相手だけに、
そのような激しい難詰の言葉はなく、
ある種の失望を抱えながら、
アーレントは「ここに来たのは、理解するためよ」と告げます。
愛を再び始めるのではなく、
ハイデガーという人間がどのような人物なのか、
改めて冷静に理解するために来たと告げるのです。
冷静に見定めることがアーレントの受容の仕方なのです。
隠棲するハイデガーとは対照的に、
アーレントは考えたことを怯むことなく発表し続けますが、
そのために古くからの友人を失い、
社会から孤立し、糾弾されます。
ですが、それにもかかわらず、
彼女は、自ら考え、発言することを止めようとはしません。
ラスト近く、大学で行われる講義は名講義です。
「人間であることを拒否したアイヒマンは、
人間の大切な質を放棄しました。
それは思考する能力です。
その結果、モラルまで判断不能となりました。
思考ができなくなると、平凡な人間が残虐行為に走るのです。
…
私が望むものは、考えることで人間が強くなることです。
危機的状況にあっても、考え抜くことで破滅に至らぬように。」
講義は学生からの万雷の拍手を受けて終了します。
しかし、その講義を聞きに来ていた古くからの友人は、
講義終了後、アーレントに次のように告げて去って行きます。
「ハンナ、君は傲慢な人だ。
ユダヤのことを何も分かってない。
だから、裁判も哲学論文にしてしまう。
…
キャンプから逃亡していなかったら、
残った女性と同じ運命に…
彼女たちは全員移送されたよ。
…
今日でハイデガーの愛弟子とはお別れだ。」
映画のラストシーンは、
ニューヨークにあるアレントのマンションの一室。
カウチに寝そべり、
タバコを燻らせながら、
考え続けるアレントの姿があります。
夜のニューヨークで、
彼女はたった一人、
思考の深き淵へと沈んでいく。
孤独を厭うことなく。
おしまい。