『ハンナ・アレント』を見てきました。その1
- カテゴリ:映画
- 2013/12/26 20:53:38
『ハンナ・アーレント』を見てきました…
…と書いて、
しかし、間違って消してしまってから、
すでに3週間が経ってしまいました。
改めて、ここにもう一度書いてみようと思います。
ハンナ・アーレントとは誰か。
彼女はドイツよりアメリカに亡命した実在の政治哲学者で、
主著として『全体主義の起源』『人間の条件』などがあげられます。
ユダヤ人であったがゆえにドイツからの亡命を余儀なくされ、
強制収容所送りになる寸前のところでフランスを脱出。
その後、彼女はアメリカに渡り、これらの主著を出版して、
アメリカの大学に客員教授のような形で迎えられます。
この映画では、そのハンナ・アーレントが、
『イスラエルのアイヒマン』を
雑誌に連載記事として書き、
後に本として出版することによって、
周囲から孤立していく経緯が描かれます。
アイヒマンとは誰か。
彼はナチス・ドイツの親衛隊中佐であり、
「ユダヤ人問題の最終的解決」の責任者、
つまり強制収容所への移送による大量虐殺の指揮を執った人物です。
そのアイヒマンは、敗戦後、
偽名を用いて捕虜収容所からの脱出に成功し、
アルゼンチンへ逃亡していたのですが、
イスラエルの特務機関によってアルゼンチンで身柄を拘束され、
イスラエルに密かに移送され、戦犯として裁かれることになります。
この通称「アイヒマン裁判」を、
ハンナ・アーレントは傍聴し、
その裁判について考察を雑誌記事として書いたのです。
人類史上、
最大の犯罪といってよい大量殺戮を指揮した人間は、
いったいどのような思想と心理の持ち主であったのか。
多くの人は、
彼の内に悪の極みとも言える思考と
残虐な人格を見出したかったのでしょうが、
しかし、アーレントが彼の中に見出したのは、
上からの命令を忠実に遂行しようとしただけの、
平凡な官僚の姿でした。
それゆえ、アイヒマン裁判は、
次のような問いを現代に生きる私たちになげかけます。
人類史上、最大の悪ともいえる行為は
どこにでもいそうな平凡で真面目な人物が、
悪の自覚など一切なく、
自らに与えられた職務として行ったということ。
それは公務員が、
手続きに従い、
自らの価値判断をなんら挟むことなく
証明書類を発行するのと同じように、
レジに立つアルバイトが、
客がカゴに入れた品物を、
なんら私情を挟むことなく
右から左へと流して購入金額を告げ、
精算を済ませるのと同じように、
普段の営みの一コマとして行われていたのでした。
「アイヒマンは罪を逃れようとして嘘をついている」
という批判は当時からありましたが、
このような批判は
アーレントが報告した内容の重大さがわかっていません。
この問題の核心は、
『イエルサレムのアイヒマン』の副題「悪の陳腐さについての報告」のとおり、
大きな悪は、悪魔的人物が行うのではなく、
平凡な人間が何も考えないまま、
日々の営みの一部として行うというところにあります。
現代日本の職場でのパワハラもブラック企業も、
家庭内でのDVも児童虐待も、
十分な震災対策を施さずに済ませた電力会社も、
根は同じところにあります。
そして、このような考察を、
裁判の傍聴を通して書いたのが
ハンナ・アーレントだったのです。
ですから、記事の内容は、
ナチズム固有の悪を裁くというよりも、
現代社会が共通に抱える問題を指摘するものだったのです。
ですが、この記事を書いたことによって、
批判はアイヒマン本人だけでなく、
アーレントにも向けられることになります。
ある意味、アーレントの報告は、
ナチスが行ったことはナチス固有の問題というより、
現代社会が抱える我々共通の問題であると告げます。
そのため、内容を曲解すれば、それは、
ナチスだけが罪を問われるものではないと語ることによって、
ナチスを弁護しているかのような意味合いにも受け取られるからです。
彼女の本意はそこにはありませんが、
しかし、自らを被害者と捉え、
誰かを加害者として糾弾したい人にとって、
特に身近な人々の中に少なからず犠牲者を抱えるユダヤ人にとって、
アーレントの報告は許しがたいものがあります。
しかも、アーレント自身がユダヤ人ですから、
彼女は、この報告を書いたことで、
家族のように慕っていたユダヤ人の仲間、
戦時中を共に生き抜いてきた友人たちも失うことになるのです。
彼らは冷静な理性による現代についての考察を望んでいたのではなく、
自他を襲った不条理な悲しみを受け止め、癒やしてくれる言葉を
同志であるアーレントに求めていたのですから。
彼らにしてみれば、アーレントは、
収容所の中に消えていった家族や友人たちの恐怖と絶望、
残された私たちが一生抱え続けなればならない苦痛がわかっていないのです。
それだけでなく、アメリカの大学からは、
学生でいつも満員の講義を中止するように圧力をかけられます。
しかし、彼女はどこまでも自らの思考で考察し、
考察した内容を人々に向けて問いかけることを止めようとはしません。
それこそが、彼女の20世紀という時代への向き合い方、
つまり、無思考ゆえに大きな悪を成す現代への対峙の仕方であるからです。
友人や同僚からの孤立することを怖れて口をつぐむこと、
目の前で起きている事態を見て見ぬ振りをしてやり過ごすこと、
そして、日々の営みと紋切り型の思考の中にいつものように潜り込むこと、
それらはアイヒマンと変わらぬ身の処し方と言えるからです。
その2に続く。