肉も魚も草も食べるよ、生きてるもん
- カテゴリ:日記
- 2013/04/29 21:41:39
「ある日、ふと空しくなってね。自分の命は生命の犠牲の上にたって生きてるんだって。そうしたら肉が食べられなくなった」
昨晩、厄落としの飲み会に誘ってくれた友人は、上記の言葉をなにかのエッセイで読んで怒り心頭になったそうだ。
このエッセイの主は、これがきっかけで菜食主義になったという。
この「上から目線」に我慢できなかったそうだ。。
肉は駄目で草ならいいのか?
草も命だって、そんな簡単なことも理解できないのか?
動物が生きていくってのは、何かの命をいただいて成り立ってるのだ。
それのどこが空しいのか。
「そこに気づけよ!」
と、声を大にしていいたいと。
彼女の論旨はこうだった。
私の答えはタイトルのとうり。
生きてればエネルギーを消費する。
息をしてるだけでもだ。
そのエネルギーの源は、食べること。
衣食住の中なら、もっとも命の根源的な欲求は「食」だろう。
それと同等の欲求は、たぶん生き延び命を次代につなぐこと。
人は食べることに貪欲だ。
それは「生きる」ことと直接的につながってるからだと思う。
南米に生息する爪の先ほどの小さなカエル。
卵を産み。おたまじゃくしになると、母親カエルはそれを樹上の水溜りまで運ぶ。
そして、成長するまで自ら生んだ無性卵で育てる。
…生き延びるための手段がここにある。
なんとなく思い出したんだけど^^;
ああ、とりとめないなあw
人が人なのは感情があるからだと力説する人がいます。
いや、感情は動物にだってあります。
植物にもあると主張する人もいます。
感情だけが人を人たらしめてるもんじゃなさげですねw
蛋白質をはじめとする様々な栄養素をエネルギーに置き換え、生物は活動します。
単細胞生物から、霊長目ヒト科の人間まで。
食べる行為は、生きるって事とイコールなのかもしれませんねえ。
いろんな悩みをかかえて、過度の食欲に走ったり、拒食になったり。
「生きる」ってもっとも奉納的なことに悩みすぎて、人はバランスを崩すのかな。
…ただ、このブログに取り上げた方は、ずいぶんとわがままだと感じました。
明日の食事の心配をしたことがないのだろうなと思います。
そんな生活をしている人がいるのも、知らないんでしょうかねえ。
生きるっていうのは、どんな生き物でも基本は
タンパク質の置き換えにしか過ぎないんですって。
私たちがアレコレと複雑に考えているものも
脳から出ている物質は、タンパク質からできている。
タンパク質を消化するための酵素ですら、元々は
身体の中のタンパク質を、形を変えて絞り出している。
日々、こうしている間にも、細胞が死んだり分裂したり
活発に見えないところで動いているのも、タンパク質ならでこそ。
だからこそ、どんな生き物も…
常にタンパク質を補給しなければ、生きていけないんです。
海で遭難した船員たちの、究極の選択ですなw
エッセイの主は、このジレンマを知らないでしょう。
そしてほんとの意味での「飢え」を知らない。
魂の飢餓感すら味わったことがないのでは?
生物の至上目的は
「生きる」
だと思います。
人間にとってもそのはずなんですが、人はそれを忘れてるように思います。
「食べる」って行為は、生殖本能や行動とも深くつながってますしね。
たぶんね、究極に飢えたら、この方は肉でもなんでも食べるなきっとw
深く深くつきつめて考えても、私は食べるを選択しますよ。
いろんな事を十代のころ、吐き気がするほど考えました。
それでも「食べる」を選択したから、今がありますもの。
いつかブログで「いただきます」って何の宗教?って聞かれたことを書きましたがw
毎日、なにかの命を犠牲にして生きてる。
それに感謝する心の現われかなと思います。
…奪った命だからこそ、しっかり食べないとね。
命は不可思議です。
「どんなに科学が発達したって、
「なぜ生命が存在するのか」
は永遠の謎のひとつでしょう。
食物連鎖の法則は、人だって無視できません。
食べなきゃ生きてけないんですから。
生きてるから、あれこれ贅沢に考えをめぐらせるんだもんねえ。
そのエッセイを書いた人に是非体験していただきたい。
目の前に、一切の野菜がなくて、
肉厚のステーキや、きれいに盛られたふぐちりや、
いや、そんなんじゃなくても、ハンバーガーや牛丼でもいい。
それでも食べずに、静かに餓死するような人だったら、
息を引き取る前に、その人の枕元で言ってあげます。
「ばーか」ってね。
感謝しながら食べる事は必要でしょうが・・・
『奪う』のではなく 感謝して自分の一部となって『生きる』と考えることが大切ですね。