風邪薬の関係で今頃目覚めた。
- カテゴリ:30代以上
- 2013/02/18 04:15:52
前日のブログを読み返しても
いつもの如く誤字が多い。
別に風邪薬の性だけじゃないのだけど、
怒りに任せて書くとそうなってしまう。
普段も怒りに任せると頭が混乱して
「ちがうちがう、そうじゃないそうじゃない」としか出て来ない。
少し落ち着くときちんと資料を持って、
その資料を何度も順番に出して行って、
対応が何とか出来る。
妹はその前に資料を持って何度も整理して、
くりっぷで細かく割っていたり、
4つぐらいのファイルに分けて、そのファぃルも名前がついている。
それから話始める。
此れはと言うと順番に資料を出してその名の着いたファイルの中の
クリップで止めたのを出して、「この部分ですが・・・」と始める。
更に相手の言う事もメモをとって「もう一度確認をさせて下さい」何て
やるので、私達は騙せないとなった様だ。
母方の複雑な叔父が無くなって、その時、母は病院に居た。
つまり複雑な理由で30人位の相続人が居たのだ。
全国に散らばった全ての相続人から、相続拒否の書類を取って居た。
分厚い書類である。
もし、この言葉がなければ、母の分は30分の1で有り、私も母のおじであるから、
殆どはその人達と戦中、戦後は関わって来たのである。
確かに母の元気な所に訪ねて来た時は母の近くに住んでいて
何かと実家に通って居た私とは一番面識があった。
ちょっとした言葉の行き違いで、気分を害した。
母が疎遠にしていた訳がない。
なぜなら母が元気な時は私が対応していたし、
母の代わりに私が色々用事を頼まれて行って居た。
その後に母は入院をしたのであって、母から縁を切った訳でない。
叔父が亡くなった時は入院をしていたので、本州でやった葬式にも出れなかった。
私も母の面倒で手がいっぱいでそこまで手が回らなかった。
当然、相続を拒否するだろうと言う様な対応と言葉使いに
「考えさせて頂きます」と言った。
30分の1を更に姉妹で分けるのである。
説明を聞くと何だか色々行って来る。
連絡が来たが葬式には確かに出なかったし、
花一つ、香典一つ送らなかった。
後始末も全て任せたと言うか母の入院と死とその後の対応で
手がいっぱいであった。
多くの連絡した親戚が来ない昔の知人たちだけの
その人達に言わせると本当に一番良い時に仲良くしていた人達が集まった
返って良い葬式だったそうだ。
向こうの言い分は後は貴方達だけの相続拒否の手続きで終わりだそうだ。
拒否するとは言ってない。
考えさせて下さい。数十万円だと言う。
えっ?30人以上が拒否する前の金額である。
手続きが済むと実質現在は?で向こうの顔色が変わった。
あなた達も含めて多くの人は葬式にも来なかった。
それでも返って暖かい葬式なったと身内の席はガラガラだったが
友人知人の席はびっしりだった。
叔父らしかったとその人達にも言われたそうである。
母の死に直面したあとである。
売り言葉に買い言葉であった。
では連絡したのに母の葬儀に来てくれましたか!
お互いに本州と北海道である。
お互いにそれどころじゃない時である。
でも、「だから出た言葉が考えさせて頂きます」だった。
その前に私達の対応に相続拒否が当然と言う口調があった。
やっと相手方が母をなくして数ヶ月だと言う事に気が着いた。
その前に脅しの様なイヤミの様な顔も見たことの無い人だろうと
言う様な言葉もあった。
そんな事は無い。叔父と私は戦後の混乱の時の話をたくさん聞いた。
私の疑問に叔父は本当に何度も在って話をきかせてくれた。
子供の時の疑問が溶けた。
私はノートを持って話を聞きに行ったのだ。
戦後千歳に米軍基地があった。
その基地がなくなる時に暴動に近い反対運動が起きた。
沖縄の米軍基地がなくなるのに反対と全く違う基地がなくなるのに
反対の運動だった。
其の為に米軍基地で働いていた叔父になぜかと言う事を
聞きたかったのである。
そうやって、しょっちゅう叔父と個人的に通って話を聞いていた事を
知らなかったのだ。
顔も知らない相手でない。
更に母が入院中で意識が混濁していた時だ。
それに対して、酷い言葉をイヤミを交えて、口に出して仕舞った。
其の返答が「考えさせて頂きます」だった。
妹はおじの顔を見たこともない。
私が北海道のおじのマンションに叔父が米軍に勤めていた戦後の時代の事を
聞くためにノートを持って通って居た事は母しか知らない。
叔父は母に思想調査までされたと仲良くしていた人の職業まで
聞いたと言って居たそうだ。
何故、沖縄の様に米軍を悪く言わないのか?
住んでいた時の距離は飛行機の爆音は?
近隣の人の反応は?
どうして千歳の人はそんな対応をとったのだろう?
叔父に対応も近隣の人の対応も米軍に対して好意的だった。
なぜ!と喧嘩腰の私に、お互いに人間だからと困惑した顔で言う叔父。
私らとどう違うんだ。
教会が在って、神を信じていて、そこいらの日本にいるチンピラより
ずっといい人間で、私らに最初からちゃんと対応してくれてる。
最初に書類にサインをするので持って帰って良いかと聞いて
近所の大学生の辞書を借りて、二人で一晩中起きて訳した。
何も悪いことは書かれていなかった。
働く方の権利が書かれていた。
それを知って大学生の人がこんな凄い書類は見たことがないと言った。
労働者の権利について書いてある書類が沢山の書類の中にあったのである。
戦争に負けたのに日本兵と米軍は命をかけて殺しあったのに
其の書類の内容を大学生は必死にノートに写して言った。
法学部の学生さんだった。
中卒の叔父とは長い付き合いになる。
こんな事にならなかったら、私は叔父に其の人に会いたいと言った。
在って話を聞いてみたいと。
叔父は連絡を取ってくれる所だった。
其れが叔父も入院をし、母も入院をした。
民主主義を教えてくれたのはアメリカ人だった。
労働者の権利を教えてくれたのはアメリカ人だった。
其の一つの例だ。
叔父は普通の日本人だった。
食べる為に米軍の仕事に着いた。
給料が良かったのである。
叔父は指を丸めて、最初は金の為だと言った。
だが、次第に解った。おんなじだと。
父親であり、母親であり、子供達であり、兄であり、弟であると。
北海道の寒い原野に私達はほおりだされて、
沖縄に膨大な金額が補助金として行っている。
それを私達は日本を守る為に当然としてきた。
長い事、当然としてきた。
それ以外に沢山のお金が行っていることも、
そして土地を貸している地主にお金が払われていることも知っている。
更に、元は基地の周りは何もなかったのに
あとから、先に基地がある事がわかっていて住み着いた人達だ。
戦後の沢山の米軍の犯罪もあった。
だが、それ以上に別の人達の犯罪の方がなんぼか恐ろしかったと
叔父が言った。
それと同時に共産党も社会党も人が死んでいないか?
粛清が無かったのか?
叔父の法学部の学生だった人も色々な人生を歩んだ。
どっちが怖い人間達だったのかと叔父は涙を流した。
私が聞いたのは一つの人生かもしれない。
戦後の日本人は沢山の事を見てきた。
戦争が終わって生まれた人達とは
戦後、大人だった人達と違った考えを持っている。
実際に戦って来たのに、それでも違った印象を持っている。
そして更に、今の人達と私達は違う。
少なくとも捏造歴史を見破る。
そんなんで分厚い書類の束をイヤミたっぷり言われて
渡されて、数週間後に返答する事になった。
法的には60分の1は権利があるのである。
妹は一度も顔を見た事が無いがあるのである。
色々ありましたねぇ。
話を大きくしない為に自分さえ口をつぐんでいればと我慢に我慢をして
悪役になって身を知らない人から、お湯をかけられて出て行かれました。
自分達が長い事耐えて、我慢した挙句の事で流石に娘に事情を話すふりをして
本当の事を言いました。
聞いてないふりをして聞いていたのですね。
側に居た人が黙って頭を下げて行きました。
本当は言いたかったけど、言ってもどうしょうもない状態になったときは
止められません。
恐ろしいけど、我慢をしていました。
全て解決しましたけど、まだ誤解している人はそのままかもしれません。
本当に、苦労した人が誤解されたままなのは辛い事です。
本当にこの歳になると色々ありすぎて、そのへんの小説なんかぶっ飛びますよ。(*´∀`*)
解ってもらって ありがとう ございます。
なにぶん 口下手で
なんか 思い出して しまって。
飲もう !!
お互いに歳ですから、たくさんの人達をみてきました。
色々ありました。
本当にいろいろあったのです。
私も 経験致しました。
今わ みんな 一生縣命なのだと 思っています
それが そうさせるのか と 思っています。
もう書けません。 すもいません