中国によるチベット侵略
- カテゴリ:30代以上
- 2013/01/08 17:54:20
★一冊の本を紹介します。
『
中国はいかにチベットを侵略したか
1956年は、中共の約束事が耳をかす値打ちもない大嘘だったことがはっきりしたという点で、チベット人にとって忘れられない年だった。 民主的改革? 土地改革? 援助? 進歩? それらはすべて暴力、脅迫、飢餓、死にいい換えてみればずっと分かり易い。それが中共の共産主義への道だった。チベットを乗っ取り、完全にわが物にするのが中共側の目的だったのだ。これが毛沢東のいう「大家族の一員としてチベットを抱擁する」という意味であった。妻、娘、尼僧たちは繰り返し強姦されまくった。特に尊敬されている僧たちは狙いうちされ、尼僧と性交を強いられたりもした。ある僧院は馬小舎にされ、僧たちはそこに連行されてきた売春婦との性交を強いられた。あくまでも拒否した僧のある者は腕を叩き切られ、「仏陀に腕を返してもらえ」と嘲笑された。(本文より)
中共のチベット侵略と占領は二十世紀最大の悲劇の一つである。百万人以上のチベット人が殺され、仏教建築物、書籍、芸術品などほとんどが破壊し尽くされた。 (ダライ・ラマ十四世・序文より)
http://www.amazon.co.jp/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%AF%E3%81%84%E3%81%8B%E3%81%AB%E3%83%81%E3%83%99%E3%83%83%E3%83%88%E3%82%92%E4%BE%B5%E7%95%A5%E3%81%97%E3%81%9F%E3%81%8B-%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%82%B1%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%80%E3%83%8A%E3%83%A0/dp/477004030X
改めて抜粋 』
『
チベットへの侵略と虐殺
■有史以来一貫して独立国であったチベット
チベットには約2100年の歴史がある。とはいえ始めの数百年は神話と史実の境界が曖昧なので、チベットの歴史はソンツェン・ガンポが仏教に基礎をおく王国を築いた7世紀から語られることが一般的である。中国では唐王朝が栄えた時代だ。あろうことか中国では唐代よりチベットは中国の一部分であったという、それこそチベットの全歴史を否定するような歪曲を行っているが、西暦763年にチベットは唐の首都長安を占領し、一時的に唐はチベットの朝貢国になったこともある。
今日まで続くダライラマ制度は17世紀に始まったもので、それ以来ダライラマは転生を繰り返して現在では14世に至っている。一般的な歴史観ではチベットは1727年に清朝の支配下に入ったとされる。しかし実際にはラサに駐蔵大臣2人を置いていただけで、現代で言う大使館を開設していたに過ぎない。チベットは英領インドと国境条約を結ぶなど一貫して独立国家として主権を行使してきた。20世紀前半当時、チベットは日本、中国、タイと並んで欧米の植民地化を免れたアジアでも数少ない独立国家のひとつであった。
■中国共産党のチベット侵略戦争
1950年10月7日、中共軍がチベット東部へと侵略戦争を開始した。チベット国境警備隊と現地の義勇軍が抵抗したものの、武器・人員ともに圧倒的な中共軍を相手に退却を余儀なくされた。
そもそも中共軍は100万の軍勢を有している一方で、チベット軍は8500人に過ぎない。始めから軍事力による勝敗は見えていた。1951年5月、北京でチベットと中国との交渉が行われた。チベットから北京に派遣された代表2人は交渉に赴いただけで、チベット政府から条約を締結する権利を与えられていなかった。だが中共の脅迫により強引に署名させられてしまった。こうして1951年5月23日、チベットの平和解放に関する十七か条協定が締結された。
■チベットが中華人民共和国の支配下に入ると早速チベット人と中国人の摩擦が激化した。当時人口7万人のラサに2万人以上の人民解放軍が進駐し、ラサ市民は住宅と食料の提供を強制され、瞬く間に食糧難と猛烈なインフレがラサを直撃した。チベットと中国を結ぶ道路建設には大量のチベット人が無報酬で強制労働をさせられ、数千人の命が奪われた。また、中国共産党はチベットの青少年に、チベットの宗教、文化、習慣を侮辱し、共産党を賛美する教育を強制した。
チベット人の不満が日増しに高まる中、ダライラマ法王は1954年、北京を訪問し、毛沢東、周恩来、劉少奇、朱徳らと会談した。このときダライラマ法王は一筋の希望を見出し、中国との協調も本気で考えるようになったという。だがその後にチベットでは、人類がかつて経験したことがないような悲劇に直面するようになる。
中略
■文化大革命
1966年5月にはチベットにも文化大革命の嵐が吹き荒れた。8月には紅衛兵の数は1万人に達し、最盛時には十数万に達した。紅衛兵は「四旧」を打破し、「四新」を建設しようというスローガンの名のもとに、数少なくなったチベットの寺院、文化施設を徹底的に破壊し、通りの名称を変更し、個人の家に入り込んで祭壇や民俗家具などをかたっぱしから壊しまわった。民族衣装を着ることもペットを飼うことも屋上で香をたくことも、伝統の模様を描くことも全て禁止された。宗教文献、写本、彫像などはあとかたもなく破壊された。チベット語も弾圧の対象となり、会話以外ではありとあらゆるチベット語の書物、教科書、が廃棄された。チベット語で印刷されたものといえば毛沢東語録と共産党の宣伝文書ぐらいになってしまった。全ての僧侶は「反動分子」として扱われ、罪名を書いた板を首かけられ、市内を引き回された。チベットのありとあらゆるものが破壊された大混乱の10年間であった。
http://dadao.kt.fc2.com/fanzui03.htm
』
現在も行われている中国のチベットでの弾圧の一つ
『・産児制限と中絶・不妊手術の強制
http://www.tibethouse.jp/human_rights/human34.html
「カムとアムドでは、さらに抑圧的な政策が取られている。
たとえば、甘粛省「天祝(パリ)チベット族自治県」では、1983年、2,415人の女性が不妊手術を受けており、その82%がチベット人である。また1987年には、四川省「甘孜チベット族自治州」のザチュ県で764人の出産適齢女性が不妊手術を受け、そのうちの660人がチベット人であった。産児制限チームが農村・遊牧地域を歩き回っては、女性たちを集めて中絶や不妊手術を施している。すでに腹部の大きくなっている女性にさえ中絶が強制され、ついで不妊手術が実施された。」
上記の資料では、チベット自治区で不妊手術の対象となった者の80%以上がチベット族とされています。チベット自治区とはいえ、漢民族入植政策によって既に地域の人口の6割が漢人となっているので、この不妊手術はチベット人を狙い撃ちして施されているのがわかります。
』
その映像はその後、消されました。
当時はテレビで日テレのHPで再放送の様に流れていたのにです。
突然消えたのです。
更に質問も消されて何も無かった事にすぐになりました。
中国も慌てたのでしょうねぇ。
すぐに日本に送られて放映されているとは思っても居なかったのでしょう。
電波少年は、よく見ていましたけど、番組自体が非人道的だったという印象です。
それでも、怖いもの見たさというか、すごい視聴率だったと記憶しています。
中国、素人の私から見ても、全体的な印象として、反社会的な感じがしますが、
本当に酷いことをやっているんですね。
すごいですよねぇ。
其れが映像にも残っていたり、バラバラに逃げた国での証言者のいう事が一致しているので
事実では無いかと。
所が私はもっとその事実をテレビで見たのです。
勿論その映像は何と湮滅されて仕舞いました。
昔「電波少年」という番組があって、矢部孝とか言う芸人がそのチベットに行って
宗教儀式を映して来ると言う指令で行くのです。
当時日本にはこのチベット虐殺の報道は隠されていましたから、
当時は正に密教の神聖な昔の国の古いイメージがありました。
その前に美しいチベットの昔の写真集がだされて、
そのイメージの所に行くと言う感じで視聴者もテレビを見ていました。
所が行った先は例の中国の恐怖政治の統制の中。
隠しカメラで追っているのですが、彼は投獄されてしまいます。
スタッフが慌てて交渉に行っても話にならない。
今もですが、日本の報道機関など中国では相手にされません。
現地の人に聞くと冷たい牢屋には何もなく、しかも投獄されている間は食事も水も与えられないという。
中国の普通の考え方で犯罪者に食わす飯も水も無いという事です。
その為に当時の多くの反乱を起こしたチベット人は春秋冬の投獄で死体になってだされて捨てられました。
助からないと言う現地の人達のこそっとした話。
どんなに日本からやっと解って中国政府に連絡をとって貰っても相手にされない。
何と2週間?だったか、投獄期間が過ぎて骨の様な彼が出されます。
それも画像で映っています。
彼は生きていたのです。夏だったから助かったと。
現地の人は表立って助けられないのでスタッフが抱えて、
助けて命からがら。
でも、何とか、その後はお金を積んだのか
特別に入れて、ヤラセなのかこっそり取れました。
しかしその前にすでにその前の状態のテレビ放映が日本でされて居たのです。
それで今度は中国の日本にいる工作員がこれはいかんと
ヤラセの様な感じで宗教儀式を隠し撮りすると言う形に作られました。
その前の事はどこにも映像はなくなりましたが、
多くの日本人がもう見てしまっていました。
そして後にチベットの惨状が知れ渡り、
あれがその一つの事実だったのかと思い返したのです。
ヒットラーによるユダヤ人虐殺に匹敵するかも。