前回の内モンゴルの悲劇の中に出てきた文化大革命
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- 2013/01/07 15:16:06
中国最大の大虐殺「文化大革命」に付いて書かねばならないでしょう。
最近中国4大発明と中国の小学生が言っている画像が放映された。
中国共産党の犠牲者は
どう感じただろう。
一つの主張を紹介します。
『毛沢東の犯罪を忘れるな!
4,000万人以上を死亡させた
文化大革命と大躍進政策
文化大革命とは『中国共産党中央委員会通知』が発布された1966年5月から、
1976年10月の「四人組」の失脚までの10年間の中国の政治過程を指す。
中国政府の公表では、文化大革命当時、四分の三の幹部が打倒され、
被害者は1億人に達したという。これは当時の人口の九分の一を占める。
そしてこの数の数倍もの加害者や盲従者がいたはずである。
文化大革命の悪影響は今日の中国社会に色濃く残っている。
紅衛兵が破壊した多くの文化遺産や名所旧跡は、もう復旧できない。
1982年の政府発表によると、中国に2億人以上の文盲、半文盲がいるという。
それは文化大革命の10年間、学校教育を怠ったことと大きな関係がある。
また、数字に表わせない無形の影響として、国民全体の素質の低下は
今後も長く残るだろう。
毛沢東は良識ある人たちすべてを憎悪し、
抹殺を指令した』
ー毛沢東皇帝名語録:
俺はスターリンの轍は踏まないぞ!フルシチョフ的人物、
すなわち、無謬の毛沢東皇帝を、いささかでも、批判するものは、
たとえ、何千万人でも、すべてぶっ殺せ!生かしておくな! ー
毛沢東は、党中央と中央所属の各機関、中央政府、各省、各市、各自治区、
さらには、すべての教育機関、学術界、マスコミ界、文芸界、出版界など、
あらゆる領域において、それぞれ、おびただしい数のフルシチョフ的人物
(毛沢東を批判する人物)がいると指摘し、どんなに人数が多くても、
これらのフルシチョフ的人物(毛沢東を批判する人物)の反社会主義的な反動思想を
摘発し、徹底的に批判し、残虐に痛めつけ、彼らから指導権を奪取しなければ
ならないと指令した。
フルシチョフは1953年~1964年にわたりソ連共産党第一書記を務め、
ソ連の第4代独裁者であった。1956年、党大会で激烈なスターリン批判演説を行い、
スターリンの数々の悪業を徹底的に非難したことで知られている。
毛沢東は【自分は無謬の皇帝】であるとし、いささかでも毛沢東の政策を批判する
【不心得者】は、すべてフルシチョフ的反革命分子であるから、容赦なく摘発し、
残虐に痛めつけ、ぶっ殺せと指令した。怖ろしい悪魔の指令である。
http://www.page.sannet.ne.jp/mhvmhv/BunkaDaikakumei.html
』
★文化大革命の犠牲者の数には色々な説があります。
『中国の毛沢東は8000万人殺したというのは本当なのですか?
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1311167988
』
★文化大革命で犠牲者は何故どういう様に殺されたのでしょう。
『絶版になった文化大革命暴露本
プロレタリア独裁とは「階級の敵」を殺害することだ。賓陽県史は文革後、新しく編集されてこう述べている。
「一九六八年七月未、県革命委員会王建主任(6949部隊副師団長)、王貴増副主任(県人民武装隊副政治委員)は『73指示」を貫徹するためにあらゆる人員を動員して、労働者階級の敵に対する猛烈な攻撃を展開した。全県で迫害され、殺害された者が三千八百八十三人、『73指示」を貫徹するために、それ以前に殺害された者が六十八人で、合計三千九百五十一人である」
一九六八年七月二十二日、県革命委員会は「73指示」を徹底的に実現する会議を開いた。「賓陽大虐殺」はこのときから始まった。総指揮者は王建である。賓陽県は二十六日、プロレタリア独裁大会会場で二人を殴殺した。二十七日、街頭ひき回しデモで「四類分子」(反動、地主、富豪、悪質分子)十四人がつるし上げ糾弾闘争のあと、殴殺された。
同日、県武装部は、幹部たちが殺人現場を見学した。二十八日夜十時、蒋河公社の呉某民兵連隊長が、各村の民兵に呼びかけ、四類分子を逮捕して公社に集合させ、二十四人を集団銃殺した。同日、王建は紅色恐怖をつくるために、いちばん賑やかな中心地区で、「二十三種分子」の批判糾弾大会を開き、群衆をそそのかして、棍棒、石ころを持って、七、八十人を殴殺した。そのなかに、県立病院院長、副院長、および内科、外科、産婦人科、薬剤師主任などの知識分子が含まれていた。
二十九日午前、王建は、県軍管区会で、政治法律幹部会議を招集し、殺人を推進するために、殺すべき対象、時間、手段、方法と目標などの具体的な指示をした。
彼は会議の席上でこう述べた。
「この一戦は七月二十六日から八月十五日までを一段落としてもらいたい。主要な闘争対象は、裏切り者、特務、死ぬまで悔い改めない走資派(資本主義志向派)と、いまだうまく思想改造されていない地主、富農、反革命分子、右派分子、さらに投機分子などである。県の重点は、新賓、盧墟の二ヵ所である。新賓は現在すでに幕を開いた。この任務を執行しなければならない。公然とは大会を開いてはならない。ただ、個別的に火をつけるだけでよろしい」
「群衆は、悪い人と思えば、彼らを『専制』しなければならない。『専制』とは、本来はプロレタリア独裁という意昧だが、ここでの『専制』という意味は殺人、処刑である。あなたたちは、人民のやりたいことを阻止してはならない。運動が始まったころには、積極分子が何人かを銃殺することは大した問題ではない。しかしわれわれは彼らを銃ではなく、拳骨、石ころ、棍棒を持って殴り殺すのが、群衆に対する教育の効果が大きい。賓陽県には現在、四千名の四類分子がいる。あなたたちは彼らを十数年かけて改造しても、私が見たかぎりでは、彼らは一人も改造されていなかった。人民があれほど精力をつくして彼らを監督しても、われわれがあれほど精力をつくしても、とうてい彼らを改造することができなかった。こんどの運動では、敵の三分の一か、四分の一を打ち殺さなければならない」
同じ日、王建は、県革命委員会で、招集された全県各地区武装部長と、人民公社の民兵隊長の緊急会議で、消極的な幹部に対して圧力をかけた。地獄の門はこのようにして開かれた。紅い嵐はアッという間に、全県に吹き荒れることになった。民衆は歴史上、かつてなかった大虐殺の恐怖に陥れられた。殺人モデル会が開かれ、その後、全県百七十二個大隊で、大虐殺の嵐がうずを巻いたのである。
この間、公安幹部の一部は、監察員として、全県各地で幹部の虐殺ぶりを監督し、しかも毎日、殺人の進展状況を報告させたのだった。県公社の指導部は絶えず電話をかけ、闘争の進展を報告し、指導部は闘争のあまりにも進まない大隊に対して圧力をかけた。弾薬をやたらに使うな、拳骨と棍棒と石だけ使え。そのために何千人もの罪のない哀れな人間が、大虐殺の嵐の中で、殴られ、骨を折られ、血を流し、殺害されていった。
http://koramu2.blog59.fc2.com/blog-entry-818.html
』