☆木戸孝允
- カテゴリ:その他
- 2012/12/06 00:16:38
木戸孝允は明治国家成立の原動力となった一人で、西郷隆盛、大久保利通とともに維新の三傑とされています。
天保4年(1833)長州藩医田昌景の次男として生まれ、その後養子となり桂小五郎と名乗る。嘉永2年(1849)松下村塾に入門。その3年後には江戸に遊学し、剣客斎藤弥九郎の道場に入り塾頭となる。さらに下田奉行所与力中島三郎助に造船術を、また長州藩士手塚律蔵、美濃の神田孝平について蘭学を修め、実力をつけていく。
万延元年(1860)水戸藩の尊攘派である西丸帯刀らと丙辰丸盟約を結び尊王攘夷運動に参加する。また、高杉晋作、久坂玄瑞などとともに尊攘派のリーダー的存在となるのであるが、勝海舟、坂本竜馬、横井小楠ら開明派とも交流があった。
元治元年(1864)新選組による池田屋事件の難を逃れ、その後京都に潜んで真木和泉ら過激派の突出を抑えるなどの行動をするものの、禁門の変が起こってしまう。この頃、二条大橋の下に乞食の姿に身をやつして潜んでいるところに、後に婦人となる芸妓幾松が握り飯を運んだという有名な逸話がある。
慶応元年(1865)に帰藩し、日藩主から木戸姓をもらい木戸貫治と改名する。その翌年京都薩摩藩邸において、坂本龍馬の斡旋で西郷隆盛らと倒幕の薩長連合密約を結び、その後大久保、西郷らと討幕挙兵について協議。
明治元年(1868)太政官に出仕して徴士となり、五箇条誓文の草案を起草。その後、新政府の参与となり封建領主制の改革を論じるが、これは後に版籍奉還となって実現する。
また、国家統一の政略として征韓論を主張したが、後に反対派に転じる。
さらには、台湾出兵に反対して参議を辞職するが、後に大久保と板垣退助の間を斡旋する大阪会議を開き、将来の立憲制採用を協議して政府に復帰した。
明治10年(1877)の西南戦争では、京都にて事変処理に当ったが、その直後「西郷よ、いいかげんにしないか」といい残して病死。享年45歳。
維新の三傑とされ、多くの逸話も残っているのですが、残念ながら木戸孝允を主役にした話しは少ないようです。
逃げの小五郎~西南戦争まで。
高杉29歳、竜馬33歳、この御方は45歳で他界。
ここらへんの歴史も好きです。