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『山椒魚』  井伏鱒二

 『山椒魚』は短編だが、井伏鱒二の作品の中でも完成度の高い代表作といわれる作品で、太宰治はこの作品を読んで感激し、井伏鱒二に指示することを決めたという。

 谷川にできた岩屋を棲家としている山椒魚は、ある日突然、その岩屋の出口から外にでることができなくなるほど大きくなってしまっていることに気づく。大きくなった頭が、岩屋の出口につっかえてしまうのである。                                                          山椒魚は、岩屋の入口の大きさを充分に把握しておくことをせず、この2年間のほほんと過ごしていた自分の愚かしさを嘆き悲しみ、しかし「いよいよ出られないというならば、俺にも相当な考えがあるんだ」と嘯いてみる。                                                   また、岩屋の出口から外の世界を覗いて、常に群れになって動き一匹だけで動くという自由を持たない小魚を見て、「なんという不自由千万な奴らであろう!」と嘲笑する。                    しかし、「相当な考えがあるんだ」と言いながら、山椒魚は自分がおかれている状況に対する打開策を見つけ出すわけでもなく、小魚たちを「不自由」だと笑っているときは自分が置かれているもっと不自由な立場を棚に上げている。その、愚かしさ。

 岩屋の中には小蝦だの水すましだのがやってきて、岩屋の内外を何の不自由もなく自由に行き来して遊んでいる。そういった小動物を見るにつけて山椒魚の自由になりたいという思いは募るが、どうしても外に出ることのできない山椒魚は孤独を募らせ、ついには、岩屋の中に入り込んできた蛙を自分と同じ境遇にしてしまえと考えて、閉じ込めてしまう。                                  孤独なものが身につけてしまうひねくれた性質を、作者は「悲嘆にくれているものを、いつまでもその状態に置いとくのは、よしわるしである」と書いている。                              山椒魚は、2年にわたって蛙を岩屋に閉じ込める。 初稿では、すっかり弱り果てた山椒魚と蛙が最後に和解するようになっているが、自選全集では、作者はこの和解部分を削除してしまっている。 孤独でひねくれた山椒魚の精神と、同じように閉じ込められてしまった蛙の自暴自棄な精神は、死を目前にしたからといってそう簡単に打ち解けあうことなどない、と思い改めたのあろうか。

 閉じ込められた山椒魚は、孤独にさいなまれる人間の姿をユーモラスに描いたものである。 孤独という暗く狭い世界で人間が演じて見せる愚かしさ、頑強さ、偏屈さは、山椒魚の少し鈍重な動きと思考によって、象徴的に描かれている。 
最近気持ちわかる気がする
                        

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2012/09/16 16:32
山椒魚の気持ち?
それとも 蛙?

今の私は山椒魚。
でも、蛙を閉じ込めたりしない。
ずっと不自由で岩屋の中で苦しんでたけど
今は大きくなって出られなくなった身体を少しでも小さくして・・・
また自由になる日を夢見て頑張ってるよ^^!
夢が叶うかどうかは分からないけどね・・・><;



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