☆彰義隊
- カテゴリ:その他
- 2012/09/02 00:10:13
「鳥羽伏見の戦い」に敗れた慶喜は、大阪城から江戸城に戻ると朝廷に対して恭順謹慎を表しました。しかし、本多敏三郎、伴門五郎などの一橋家官僚が発起人となり、彰義隊の前身が作られることになります。その目的は慶喜を擁護することでしたが、さらには名誉を挽回し、昔の権威を取り戻すことだったと言われます。
彼らは数回の会合を重ねるうちに、多くの有志が集まるようになりました。彼らはもともと「尊王恭順有志会」という隊名だったのですが、義を彰かにするという意味から「彰義隊」と名を変えました(将軍の腰掛けである床几(しょうぎ)にも通じ、将軍を守るという意味があるという説もあります)。
そして、幕府公認の団体となった「彰義隊」は江戸市中の巡回を行い、江戸の治安維持を務めることになりますが、その後上野戦争に突入したことは有名なことと思います。
しかし、大村益次郎率いる新政府軍には全く歯が立たず、わずか一日で壊滅してしまいます。
ところで、上野の西郷隆盛の銅像の裏にひっそりと彰義隊の墓があるのですが、このことはあまり知られていないようです。また、その墓碑には、山岡鉄舟の書で「戦士の墓」とだけ書かれています。聞くところによると、明治新政府の手前「彰義隊」の文字を書くことができなかったそうです。
知りませんでした^^;
”黒門”は、荒川区のお寺に移築されています。