生まれ育った場所を訪ねる事は過去を旅することだ
- カテゴリ:人生
- 2012/06/12 03:59:58
わたしは世田谷の○○で生まれました。小学校にあがるぐらいまで住んでいました。平屋のアパートですが、庭がひろかったことをおぼえています。
けれども父は亡くなっており、母に聞いても、場所をまったく覚えていないといいます。ですから何となく、それが具体的にどこにあったのか、知ることをずっとあきらめていました。
周りのことは、これだけは覚えていました。今は緑道になっているのですが、当時は川が近くにながれていたこと。その川岸をとおって駅にむかったこと。
ここ三年位で、また世田谷、それも同じ沿線にすむようになりました。
最寄り駅から上り方面へむかう途中のことです。二年ぐらい前でしょうか。○○駅の看板で、幼稚園の名前を見ました。それはとても聞き 覚えがある、懐かしい名前でした。創立年も書いてあったのですが、わたしが生れるずっと前です。そうなのでした、わたしはこの幼稚園のすぐ近くに住んで いたのです。もしかして、行く筈だった幼稚園です。けれども、おそらく貧乏だったからでしょう。いかずじまいの幼稚園でした。幼稚園にいかなかったこと、 今でも、とてもよかったと思っています。ひとりで遊べましたから。すきなだけ想像ができました。もっともそのせいか、すこし学校にそぐわない子になったか もしれませんが…。
ともかく、幼稚園までゆけば家がわかるかもしれないと思いました。けれどもそうすることなく数年がたちました。どこかで謎のままにしておきたかったのか もしれません。知ることで想像がすぼまると思っている? けれども、数年先に、どうも世田谷から離れてしまいそうなのです。そんな状況が、この謎のままにしておくという状況を、変えた方がいい、と思うようになっていったのでしょう。
そして丁度、最近、散策コースが載っている無料マップを見かけました。なにげに開きます。○○駅コース…。それをみていたら、と たんにわたしが住んでいた場所がわかってしまったのです。川岸にそって歩いたのち左にまがる、幼稚園のむかい…。わかった時、謎がとかれてし まったというなにか喪失感もありましたが、同時にあたらしい記憶の獲得として、うるものもあり、ほっとしたようなうれしさもこみあげてきたものでした。そ して後者のほうが、大きかったのです。知ることはやはり喜びです。○○駅で降りる機会があったので、その折に生れ育った家を探しに行くことにしました。
○○駅には、神社もあります。元の家の方とは方角が違いますが、そこもまた子どもの頃の記憶にあるところなので寄ることにしました。といっても、ここは数年前、そうとは知らずに訪れて、境内にある土俵を見て、思い出したの でした。その土俵では江戸三相撲の一つとされる奉納相撲が行われていたといいます。わたしはこの奉納相撲を小さい頃にみたことがありました。お祭りの にぎわいがあたりをつつんでいました。周りには屋台が出ていました。縁日です。和紙でできた小さな唐傘のおもちゃを買ってもらいました。舞妓さんのような 女性が書かれていました…。そんな記憶が、この土俵とつながったのです。場所が記憶をひきだしてくれたことのです。そうかここだったのか…、びっくりしま した。そしてそれはデジャヴにも似ていました。小さいわたしがいた場所なのですから、あたりまえなのですが、今いるここは、どこかでみたことがある、と過 去のそれと今のそれが二重になっていったのでした。
後日調べたのですが、いまでも近くの大学の相撲部により、毎年秋の例祭、九月十五日になると奉納相撲が行われているというので、わたしがみたのも、おそらくそれなのでしょう。
そして、手水舎の水が井戸水だということ、これは数年前に境内に書いてあったので知ったのですが、その時に、わ たしが子供の頃、家の水が井戸水と水道水、ふたつの蛇口があり、庭には井戸があったことを思い出したものでした。今では、飲み水には適していないというこ とでしたが、それでもまだこのあたりには井戸水があるのだと、知ったときは、うれしくなったものでした。
ひととおり、みて、そのまま当初の目的どおり、かつての家のあたりへ。
いったん○○駅あたりに戻ります。そしてかつての川、緑道へ。といってもこのあたりでは、車道のようになっており、そうと知っていないとわかりません。実際、以前、気づかずに通ったことのある道でしたし。
この下が川なのかと、当時を思い出そうとするのですが、なかなか、記憶と重なりません。まわりも瀟洒なマンションがたちならんでいて、景色 がまるっきりかわっていることもあるでしょう。たしかアパートやこじんまりした民家ばかりだったような気がするのですが…。そして汚れた川。茶色 でしたか、灰色でしたか。コンクリートで護岸された、汚い川でした。そうして? わたしをこの川の橋のたもとでひろってきたのだと、父は笑いながらいった ものでした。わたしがかなしげになるのをほほえましくおもっているのがよくわかりました。わたしはもちろん、どこかでそれがうそだとしっていたのです。 しったうえで、それでもかなしくなる、それを父がすぐさまいやしてくれる…。この遊びは何回もくりかえされました。たいせつな遊びです。
そのまま路をまっすぐいって、左の細い路へ曲がります。高架下をくぐりました。当時高架下だったかどうかはおぼえていません。 もしかするとちがったような気がします。線路に沢山の土筆が生えていたのをなんとなく記憶していますから。くぐるとすぐに幼稚園がありました。たぶんここ です。まちがいありません。そしてこの向かい側に、家があったのです。今、そこにあったのは、なんと変電所でした。高い塀でかこまれているので、なかの様 子はまったくわかりません。けれどもかなりの確率でここなのです。記憶からでしょうか、わたしのなかのというより、場所のなにかがそうだといっているので す。幼稚園もおそらく随分姿をかえているのでしょうけれど。変電所の塀のむこうに、大きな木が見えました。当時、緑が多かった記憶があります。この木は しっている木かもしれないと思いました。わかりません。
帰りはちがうルートで駅へ戻ります。お寺の脇をとおります。ちなみに幼稚園はこのお寺の系列です。この道沿いに、もしかすると、かつて よくかかっていた診療所があったような気がしたので。すこし行くと両側が墓地になりました。そうか、だからこの道はあまりとおった記憶がなかったのだ…と なんとなく思い出します。いつも川のほうから駅にいっていたのは、そういうことだったのかと合点がいったような気がしたのです。けれどもこのほうは記憶が 不確かです。なにせ、墓をとおった記憶がほとんどないのですから。
診療所はみあたりませんでした。やさしい先生でした。けれども、当時からあるであろう、銭湯は発見しました。家にお風呂はあったのですが、親戚がきたときなど、皆で入りにきた覚えがあるのです。まだ富士山の絵は書いてあるのでしょうか。
ひさしぶりに歩きました。ここちよい疲れでした。その日から、しばらく、昔のこと、子供の時のことがなにかと思い出されました。その時の現実の路が、過去に通じていたからかもしれません。
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- うみきょん
- 2012/06/12 04:03
- この文章、ちょっと前にほかのブログ用に書いたものです。今日は書くことがなかったので…。
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