一 平家、急潮に滅ぶ (その三)
- カテゴリ:その他
- 2012/05/14 21:40:19
○みもすそ川(みもすそ川町)
御裳川碑
去此地東七丁餘有一小渓流之入海者御裳川是也川者安徳帝崩御之遺跡而滄桑之變■也歸湮滅我等憂之將建碑傅之于後(一部削除)因移建于■亦以鹿幾乎表一■之徴哀哉 康文書[右側面]
壇之浦 東七丁 伊崎王城山 西一里
平家一杯水 東九丁 柳浦内裏 南二里[左側面]
(碑文より) ■は表記不可能な漢字
今は水も涸れて昔を偲ぶよすがも無いが、復旧された御裳橋の朱塗りの欄干のみが旧蹟を示す。国道九号線沿いの海岸が昭和三十四年(一九五九)に公園化され、みもすそ川公園となった。公園内の御裳川碑は元々赤間神宮境内に建てられたもので、後に現在地へ移された。
御裳(みもすそ)川の地名は、二位の尼辞世の句「今そしるみもすそ川の御ながれ波の下にも都有りとは」から名付けられた。安徳幼帝を抱いた二位の尼が、この川の沖合に身を投じたとされる。
このみもすそ川は正しくは御裳濯(みもすそ)川といい、御裳濯川自体は伊勢神宮(三重県)内宮の傍を流れる五十鈴川の別名で、倭姫命が御裳のすそを濯ったことからこう呼ばれた。それになぞらえて、山手から壇之浦に流れ込む小川をみもすそ川とよんだのである。一説に、遊女にまで身を落とした平家の元女官達が、この川で洗濯をすれば綺麗に洗えるが、これを聞いた馬関の町家の女性達が洗っても汚れはさっぱり落ちなかったという故事に由来するともいう。
○安徳天皇入水像(みもすそ川町)
みもすそ川にある割烹旅館みもすそ川別館の前庭に立つ。像高二・六米の陶製の像で、岡山県の陶芸家が昭和四十五年(一九七〇)に作陶。二位の尼が安徳天皇を奉持して入水しようとしている姿を表わしたものである。
○平家の一杯水 (前田二丁目)
~前略~
平家方のある者は捕らえられ、また海に沈み、または傷を受けてようやく岸にたどり着いた者もありました。そのうちの一人の平家の武将は、全身にひどい傷を受け海に落ちましたが、命がけで泳ぎ岸にたどり着きました。その武将は傷の痛みと疲れで喉がカラカラに渇ききっていました。あたりを見渡すとわずかな水たまりを見つけたので、武将は痛む体を引きずって、水たまりに近づき、その水を手のひらにすくい喉をうるおしました。その水の美味しいこと、武将にとっては命の水とも思えるものでした。あまりの美味しさに夢中になって二度目を口にしたところ、大きくむせて吐き出してしまいました。不思議なことに真水は塩水に変わっていたといわれています。(看板より)
戦いに敗れ、負傷した平家の武将が前田の波打ち際に辿り着いて、海岸端にしみ出る水を掬って飲むと真水であった。もう一度掬って飲もうとすると、それは塩水に変わっていたという言い伝えが残る。今は小さな赤い鳥居と井戸がある。この井戸は干潮の時は火の山山系からの伏流水が真水としてしみ出し、満潮の時は海水で満たされる。
赤間神宮ではこの故事にちなみ、大晦日の晩にこの井戸の水を汲みに行き、一年の最初の祭典である歳旦祭で、元旦零時に若水(わかみず)として献上される平家一杯水の奉納神事が行われる。これは昭和年代に復興した神事である。さらに、先帝祭でも本殿祭前に井戸の水が奉納される。
マヤと天皇家に関わる予言について
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