一 平家、急潮に滅ぶ (その二)
- カテゴリ:日記
- 2012/05/12 08:45:20
○清盛塚(彦島江ノ浦町)
清盛塚
寿永三年(一一八三(ママ))中納言平知盛は亡き父清盛の遺骨を携えてこの彦島に入り平家最後の砦、根緒城の築城に取りかかり砦と定めたこの丘陵の小高い場所に納骨して墓碑を建立した。
翌年四年三月二十四日壇之浦の合戦に出陣したが、再興の夢ははかなくも渦潮の中に消え失せた。
墓碑は永年無銘のまゝ荒地に放置されていたが昭和四年土着の歴史に詳しい人達の手によって清盛塚と刻まれた。
祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響あり
昭和六十二年十月
江の浦四丁目自治会有志による聖域整備によせて
郷土史家(某)記
(看板より)
知盛は父・清盛の霊を慰める為、彦島に無銘の碑を建てたといわれる。その碑は江ノ浦の山中・杉田丘陵にあり、ここが根緒城のあった所ではないかといわれる。
実際に行ってみると、あちこちに立てられた看板が現地に案内してくれる。茂みや林を抜けて丘陵部に差し掛かると、高さ約一・五米の地鎮神と彫られた石塔が目に入る。石塔の周りに椿や榊、グミの木が植えられている。清盛塚は椿の根元近くにひっそりと立っている。高さ約九十糎の自然石に清盛塚と彫られ、左に無刻の石が並んでいる。
○壇之浦古戦場址(みもすそ川町)
~前略~彦島を根拠地とした知盛の軍は、九州、四国勢と合して田之浦を進めば、関東武者を中心に周防長門の兵船を含め源氏の軍は満珠、干珠の島影より兵を進めた。紅白入り乱れその死闘数刻、ついに平家一門は急潮に敗走した。おん年八才の幼帝を奉持した二位尼は
今ぞしる身もすそ川の御ながれ
波の下にもみやこありとは(長門本平家物語)
の辞世を残して入水され怨をのんだ一門はこの海峡の藻くずとなった。(碑文より)
関門海峡最挟部は六七〇米。海峡の潮は東流れ(西から東へ)と西流れを日に二度、繰り返し、最急潮時には八ノットにもなる。流れの上には関門橋(一〇六八米)が偉容を誇る。
日本海から瀬戸内海へ、すなわち彦島側から満珠(まんじゅ)、干珠(かんじゅ)側へと流れる東流れの潮に乗って知盛は源氏をじりじりと攻めたてた。
勝利だけにこだわる源氏方義経は、平家の武士ではなく水夫達を真っ先に射殺し、斬り殺すという禁じ手の戦い方に出た。櫓を漕ぐ水手(かこ)、揖取(かんどり舵取)は漁民で非戦闘員、言うなれば民間人であって、こういう人達は攻撃しないというのがそれまでの常識であったのを、義経は戦(いくさ)のルールを全く無視していた。平家物語などは奇襲などと美談にしているが、極悪非道の行いは許されないものであり、その後の義経の身に起こった悲劇は因果応報と思え、同情の余地は全く無い。この下関彦島においては九朗判官義経はただの悪漢に他ならない。
そのうちに海は凪ぎ、そして潮流は西転。漕ぎ手を失った平家の船は潮に押し戻され、遂に平家はこの西海に滅び去った。
平家方にあった三種の神器の内、神鏡の八咫の鏡は安徳帝の御座船に残り、神璽の八坂瓊の勾玉は箱のまま海中に浮いていたのを引き揚げられたが、神剣の天叢雲の剣は探し出すことが出来ず、義経にとっては大失態だった。
○碇潜-平知盛
謡曲碇潜(いかりかづき)は、平家一門の修羅の合戦の模様とその悲壮な最後を描いた曲で、「舟弁慶」の類曲である。
壇之浦の古戦場に弔いに来た旅僧が、渡し舟に乗り合わせた漁翁に軍(いくさ)物語を所望する。漁翁は能登守平教経(のりつね)の奮戦と壮烈な最期を詳しく語り、後の弔いを僧に願う。
旅僧の回向に導かれるように勇将平知盛の姿が現れ、安徳天皇始め一門悉く入水するまでの経過と、修羅の戦いの有り様や碇を頭上に掲げ海に飛び込む知盛の幻影を旅僧は見たのであった。先の漁翁は、実は知盛の霊であった。
今、みもすそ川公園に行くと、知盛・義経の像がある。二〇〇五年NH○大河ドラマ化を記念して、その前年暮れに造られた。
碇を担いだ知盛の造像は、海に沈むどころか、今にも義経めがけ投げ付けるような気迫を持っている。血相を変えて飛び逃げる義経が滑稽に映る。一艘飛んで逃げたのを後に八艘飛びと誇張された。八艘分も飛んで逃げたとあっては、大将としての面目丸潰れであろう。知盛の像ではありながらも、そこに教経の姿を重ねずにはおれない。壇之浦の合戦以前に亡くなったとされる教経を平家物語はあえて登場させている。猛将教経が居なくては合戦が始まらないとする。そんな意味で、義経に比べ、教経の方が一枚も二枚も役者が上手(うわて)なのである。
さて、知盛であるが、長唄や歌舞伎にも取り上げられ、また多くの絵師が彼を題材にした数々の名作を残した。