『マンガは哲学する』 永井均
- カテゴリ:マンガ
- 2012/05/08 22:33:18
漫画そのものではないのですが、哲学者の永井均氏が自分の哲学的感度に引っ掛かった漫画作品を取り上げて思いのままに語っている本です。
「まえがき」の言葉から。
私がマンガに求めるもの、それはある種の狂気である。現実を支配している約束事をまったく無視しているのに、内部にリアリティと整合性を保ち、それゆえこの現実を包み込んで、むしろその狂気こそが本当の現実ではないかと思わせる力があるような大狂気。そういう大狂気がなくては、私は生きて行けない。その狂気がそのままその作者の現実なのだと感じたとき、私は魂の交流を感じる。それゆえ、私がマンガに求めているものは、哲学なのである。
藤子・F・不二雄の「気楽に殺ろうよ」という作品に言及したページでこんなことも書かれています。
藤子・F・不二雄は、現実をつねにありえたかもしれない他の可能性との対比の中で見ている。われわれが信じて疑わないこの現実が、彼の目には、そうでなくてもよかったひとつの偶然的なあり方のように見えているのである。藤子のこのような感覚をばかばかしいと感じる人もいるだろう。しかし私は、このような感覚に強いリアリティを感じる。現実を支配している規範を単純に信じている人のほうが、私にはばかばかしい。
上記の文章を読んでピンときた人には楽しめる本だと思います☆
面白かったところはたくさんあるのですが、
藤子・F・不二雄の「ミノタウロスの皿」の「言葉は通じるのに話は通じないという…これは奇妙な恐ろしさだった」というせりふに対して、「このせりふは作者の哲学的知性の高さを示している。だが、ほんとうに「言葉は通じる」のであろうか。そもそも、言葉は通じるのに話は通じない状況と、言葉が通じない状況とはどう違うのか」というところ、、、
吉田戦車の『伝染るんです。』での「「とりかえしのつかないこと」のほうはもし意図的にしようと思えばできるのだ。「ウカウカすること」はそうではない。これは、しようと思っても自分の力だけでは実現できない」という考察、、、
などなど。
この本のキーワードは「哲学的感度」です。
この言葉について、本書ではっきりとした定義はされていないのですが、石ノ森章太郎『リュウの道』の回で、「思想的に読めば、この作品はつまらない。だが、つねに問いが答えを凌駕していることこそ、哲学的感度の存在の証なのである」とヒントがあります。
話はずれるかもしれませんが、「答えを導き出す」ことよりも「問いを見つける」ことの方がはるかに重要で難しいことだというのは私が常々感じていることです。ある種の物事については、重要なのは問い自体であって、答えというのは問いそのものほどには重要ではないのです。
2000年に出版された本ですが、取り上げられた作品は70年代、80年代のものが多いです。
私はここで取り上げられた作品のうち2割も読んでいません。
ですが、書評や評論というのは取り上げられている本を読んでいなくてもその評論の内容自体が面白ければ面白く読めます。
取り上げられている漫画家・作品は以下の通り。
赤塚不二夫 『天才バカボン』
石ノ森章太郎 『リュウの道』
岩明均 『寄生獣』
楳図かずお 『洗礼』 『漂流教室』 『わたしは真悟』
甲斐谷忍・城アラキ 『ソムリエ』
川口まどか 「ツイン・マン」
業田良家 『自虐の詩』
西原理恵子 「はにゅうの夢」
坂口尚 『あっかんべェ一休』
佐々木淳子 「赤い壁」 「メッセージ」 「Who!」 「リディアの住む時に」
しりあがり寿 『真夜中の弥次さん喜多さん』 『髭のOL薮内笹子』
士郎正宗 『攻殻機動隊』
高橋葉介 「壜の中」 「夢」
田島昭宇・大塚英志 『多重人格探偵サイコ』
つげ義春 「無能の人」
手塚治虫 『ブラック・ジャック 第七話 幸運な男』 『火の鳥 異形編』
永井豪 「霧の扉」 『デビルマン』
中川いさみ 『クマのプー太郎』
萩尾望都 「半神」 「A-A'」
福本伸行 『カイジ』
藤子・F・不二雄 「気楽に殺ろうよ」「流血鬼」「ミノタウロスの皿」「サンプルAとB」「絶滅の島」 『ドラえもん』「自分会議」
星野之宣 『ブルーボール』 『2001夜物語』 『スターダストメモリーズ』
松本大洋 『鉄コン筋クリート』
諸星大二郎 「感情のある風景」 「夢見る機械」 「子どもの遊び」
ゆうきまさみ 『究極超人あーる』
吉田戦車 『伝染るんです。』
吉野朔美 『ECCENTRICS』 『ぼくだけが知っている』
あ~、作品を並べるとなんだか長くなってしまいました><
最後まで読んでくださってありがとうございます(´・ω・`)ノシ
【追記】
書いていて気付きましたが、この本の内容を2000字以内でまとめるのは私には無理でした…orz
うまくまとめられている文章ではないのに長いコメントをくださってありがとうございますm(__)m
「オタク」というレッテルが貼られている人の一部は
確かに現実世界よりも大狂気の方にどっぷり浸かっているのでしょうね。
でも、大狂気ではなく現実世界の方に生きていると思っている人たちの「現実世界」とは
「大狂気」と比べて果たして絶対的なものなのか、というのが永井氏の基本的なスタンスでもあります。
私の好きな作家に森博嗣という人がいるのですが、彼の小説の中に、
「先生……、現実って何でしょう?」
「現実とは何か、と考える瞬間にだけ、人間の思考に現れる幻想だ。普段はそんなものは存在しない。」
という主人公たちの会話があります。
「現実」と「幻想」というのは常に対比して語られるものですが、
実は個々人が生きていると思っている「現実」とは「幻想」でもあるのです。
「問いを立てる」行為と「答えを導き出す」行為に対する考察も興味深く読ませていただきました^^
普段でも自分が疑問に思うことを周囲の人が全く疑問に思わないことってありますよね(逆もまた然り)。
「答えを導き出す」というのは「問い」があれば誰でもアプローチが可能ですが、
「疑問(=問い)」というのは誰もが感じるわけではありません。
その意味で、「問いを立てる」ことは「答えを導き出す」ことより難易度が高いです。
別に哲学的な問題ではなくても、日常生活で何かトラブルが起こった時、
何が問題なのか発見できればそのトラブルの大部分は解決できたといって良いでしょう。
その問題に対して解決策を見つけることも大切ですが、
それよりも何が問題なのかを認識することの方がさらに重要です。
あ、私も素人ですよ^^; 別に哲学云々の仰々しい話をしたかったわけではないのです。
この本はニーチェもカントも読んでいなくても楽しく読める本です(私だって読んでいませんw)。
永井氏の言う「哲学的感度」の定義はともかく、
私は「哲学的=前提を疑う」というくらいの意味で使っています^^
うまく紹介できていない文章なのにコメントくださってありがとうございますm(__)m
私もここで取り上げられている作品のうち、2割も読んでいません☆
手塚作品は以前まとめて結構読んだのですが、永井作品は全く読んだことがないです^^;
でもマンガ評も書評もテレビ評も、評論というものは評論自体が面白ければ
取り上げられている作品を知らなくても面白く読めてしまいます(考えてみると不思議ですね)。
藤子・F・不二雄の「現実をつねにありえたかもしれない他の可能性との対比の中で見ている」
という部分は、生まれた時から(あるいは生まれる前から)ある現実で当たり前とされていることが
そうでなくてもよかった一つの偶然的なあり方のように見えている、という意味です。
この「気楽に殺ろうよ」という作品は「性欲よりも食欲が隠されるべきもので、
殺人の権利が売買されるのが当たり前であるような別の世界に入り込んでしまった男の話」なのです。
説明不足で申し訳ありませんm(__)m
もちろん、カズさんが仰る「現実は常に無数の可能性の中から選ばれた、偶然の一つ」というのも
その通りだと私もいつも思っています^^
なんだか引用が多くなってしまって分かりにくい文章ですみませんorz
こんな文章にコメントくださってありがとうございますm(__)m
面白いマンガって、主人公自身か作品そのものが問いを発しているものが多いように思うのです。
例えば『鋼の錬金術師』も『僕の地球を守って』もそうです。
『動物のお医者さん』のように一見問いを発していなくても面白いマンガもありますが。。。
(でもあれは表現方法が挑戦的ですからやはり問いを発しているかもしれませんね^^)
そしてその問いに対して作者(あるいは主人公)が作品内で答えを出そうとするのですが
出された答え自体は私にとって納得できないことが多いです。
『ぼくたま』で作品が導き出した答えも私にとっては不満なものでした。
ですが、それでもあの作品が傑作であるといえるのは
導き出された答え以上に作品が発する問いが素晴らしいからです。
あの作品は「つねに問いが答えを凌駕している」一例だと思います。
あ、以上のことはもちろん私の個人的な意見なのですけどね^^;
>現実を支配している約束事をまったく無視しているのに、内部にリアリティと整合性を保ち、それゆえこの現実を包み込んで、むしろその狂気こそが本当の現実ではないかと思わせる力があるような大狂気。
これは漫画の魅力そのものですね。
感度の一際強い人が、ここで言うところの大狂気に魅せられ、現実世界よりも大狂気の方にどっぷり浸かる。
世間一般で「オタク」というレッテルが貼られている人の一部は、これに該当するのでしょう。
>「答えを導き出す」ことよりも「問いを見つける」ことの方がはるかに重要で難しいことだというのは私が常々感じていることです。
「問いを立てる事」こそが哲学の本質だ、という言葉もあるくらいです。
「答えを導き出す」という行為は、「問い」という起点があるので、迷ったら起点に戻るというアプローチができます。
対して、「問いを見つける」という行為には、起点がありません。
世の中の有象無象の現象から、自分自身の感覚によって切り口を見つけ、そこから問いを立てる手がかりを得るものかと思います。
まず、どの現象を見るのか。(対象が適切でなければ、問いは立てられません。)
また、切り口は閃きによって見つかるかもしれないし、何十年ももがいて苦悩してようやくたどり着くものかもしれません。
「問いを立てる」ことができて初めて、「ああ、今思えばあれがこの問いを立てる起点になったな。」と言えるのではないでしょうか。
起点が後付けになる、というなんだか矛盾した性質を持つような気がします。
よって、「問いを立てる」という行為は、「答えを導き出す」という行為よりも不安定なものだと思います。
あ、ちなみに僕は哲学系に関してはズブの素人です。
完全に自分の感覚で書いていますので、哲学をかじった事のある人からすると穴だらけでしょう^^;
取り上げられている漫画、半分もわかりません(苦笑)
こういう切り口もあるでしょうね、つまり、たかがマンガではないものは、世の中に
いっぱいあると思いますよ。でも永井先生の感度が推薦されているものをほとんど読んでないのが
さびしいです^^;
現実の展開は、実際に起きたこと以外に、無数の可能性があったことは間違いないです。
常に無数の可能性の中から選ばれた、偶然の一つが、起きているとボクも思っています。
でも哲学を感じるのはわかりますし、このような見方も面白いですね!
答えは簡単に出るものばかりでないですが、問いは必要だと思いますし、
問い自体が重要だとは私も思います。
取り上げられたマンガは半分も分からないです^^;;