お涼の活躍20お涼死す3(忍者物語)40
- カテゴリ:日記
- 2012/05/06 11:39:38
次の日、葬儀屋から寺が手配した立派なお棺が届いた。
一緒に埋めたいものを棺に入れて寺へ運んでくるようにと言われた。
庶民には考えられない待遇だ。
お涼のお棺は荷車に乗せられて、赤鶏寺に運ばれた。
道々にお涼だと解ると手を合わせる人が居た。
男山で闘った男や女や一緒に魚を取った子供達も手を合わせた。
与一、正太がお棺を運んで、
佳代は子供を連れて放心した様について行った。
其の周りを大勢の人が付き添った。
赤鶏寺の住職の計らいで、埋める前にもう一度、
寺の中に男達でお棺を運んで、
特別に住職自らお経をあげてくれると言う。
他の物は一段下がった所で泣き伏せている
と住職は余程高貴な人にしかしない
香料をお棺を開けて特別に丁重に振り掛けてくれた。
此れは公家や殿様の葬儀でする死臭を隠す為にする一つで
埋めるまでの間に多くの人が其のお棺にお参りをする為に
香料をたくさん体に振り掛けて其れをその間死臭がして
お参りに来た人が嫌な印象をもたれない様にするものだ。
最高の扱いであった。
多くの者がそれに参列し、
寺の外でも聞きつけてきて手を合わせる人が居た。
寛太は一枚の着物を与一に渡した。
お涼が子供の時に来てたと言う、周りの人間が驚くほど
美しい金糸銀糸で何かの模様が付いていた子供用の着物だ。
与一は其れをお涼はただの大工の嫁だからと
其れを寛太に返そうとしたが、
和尚の勧めで其れをお涼の上にかけてやった。
佳代は仕込み刀を棺の中に入れた。
やがて、寺の住込みが掘った穴に棺が納められた。
女達の啜り泣きと男達のうめき声があちこちで聞こえた。
卒塔婆を立て、お涼の住んでいた地区と
家の場所とお涼と書かれた。
後でお涼の死を知ったと言う人が数日後に
線香手向けに来るので
線香の耐える時無い日が長く続いた。
忍者達がこっそりと夜中に来るので、
お涼の墓は夜中も線香の火が赤くともっていた。
色々な所で気の抜けた空気が流れた。
数日後、寛太は和尚に呼ばれて寺に行った。
寛太が仕事をほおりだして源蔵を
探していると言う噂が立ったからである。
噂では源蔵は自分が引きつれていた忍者の棟梁を
下りたと言う事だけが解った。
寛太が寺に行くと寺には和尚だけしかいなかった。
和尚は自分は元、京の近くの荘園の領主だったと言った。
妾に男の子が生まれたが、
長らく子が出来なかった正室に女の子が出来たので
其の12歳になった男の子は荘園内の侍所に
預けて剣の修行に出した。
娘が3歳になった時に
隣の荘園の領主が襲ってきた。
娘を使用人に預けて逃がしたが、
すぐ駆けつけてくるはずの侍が来なく、
間もなく屋敷も焼け落ちて、
妻も使用人も屋敷に居た侍達も討ち死にした。
自分が助かったのは弓を受け
て川に落ちて流された為だった。
次の日、屋敷に戻ると投げ出されている妻の遺体を含めて
多くの集めれた遺体の中に在ったが
敵兵が穴を掘ってまとめて埋めているのに、
自分は何もしてやる事が出来なかった。
息子はどうなったのかと侍所に行くと、
一番最初に其処が周りから火をつけられて
出て来る所を次から次と殺されて、
後は焦げた死体の山だったと聞いた。
助かった物は一人も居ないとの事だった。
私だけが助かって、自害しようと思ったが、
娘が万が一どこかで生きていたら
その子の事を思うと死にきれず、
娘を探す旅をしている内に止まった寺で
妻と死んだ息子の供養もしてあげなさいと諭されて
仏門に入って修行をして僧侶になった。
僧侶になって旅をしている内に
此処は檀家以外の闘いで死んだ無縁仏も
引き受けて埋葬していると言うので、
此処の僧侶として使えさせて貰った。
思えば自分の家臣達の供養も
していない事の贖罪でもあった。
その後和尚の後をついで此処で
お勤めさせていただいていると言った。
それから、しばらくの間が在った。
和尚は決意をした様に話し始めた。
其れを話さないと寛太を説得できない事であった。
此処の領主が家臣に殺されて、
領主に使えていた忍者達が国に帰る事になった夜に
一人の忍者が訪ねてきた。
名は源蔵と言った。
其の忍者はいつも覆面をして、普段も目深に手拭いをかぶっているので
顔を見た人はいないと言う忍者だった。