Nicotto Town


安寿の仮初めブログ


今日は『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』


昨日映画のはしごをしたばかりなのに、
今日も夕方に映画を見るという…、
これは道楽なのか仕事なのか…、

ともかく見てきました。
『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』

でも、原題は、The Iron Lady 
邦題の「涙」は、余計です。

この映画は、扱いがむずかしいですね。
現在も存命で、しかも映画で描かれている通り、
サッチャーは今、認知症の状態にあるわけで、
その認知症も含めて、こういう形で、
彼女を描いてしまっていいのかなという、ためらいというか疑問は残ります。

サッチャーの個性はよく描けていたように思いますし、
サッチャーの経歴と業績についても一通り目配りしてますが、
それをどのように評価するのか、どのように位置づけるのかという
政治的判断や歴史的評価について、この映画は踏み込もうとしていません。

ですが、サッチャーを描く時、そこは避けて通れないはずです。

間違いを犯さない権力者/政治家はいない。
しかし、おそらく彼女は「自分が間違っていた」とは認めない人です。
その点で、彼女は信念の殉教者にはなれても、
他者の救済者にはなれない人です。

彼女は、汚れた現実の中から対策を考えていくよりも、
現実を断ち切って、信念を鼓舞し、信念に生きようとする人ですから。

それは生き方としては潔くても、
利益も思想も異なる人々の生活を預かる政治家としては、
大きな問題を含みます。

彼女のような強烈な個性がなければ、
圧力集団・利益団体にがんじがらめになった政治に、
大鉈を振るうような強行策はできなかったように思いますが、
自立的個人の倫理に立ち返っても、
その気構えだけで自分の生活を切り開いていける人は少ないのです。
自立のためにもサポートを必要としている人は多いのです。

最近、公共哲学が関心を集めているのは、
(NHKで放送されていた『ハーバード白熱教室』のテーマはこれです)
自立的個人のノスタルジアではなく、
かといって単なる数の力や利益の妥協点ではなく、
理想的な、しかし現実性を欠いた人権論でもなく、
現実に機能しうるような公共政策を決定しうる判断基準は、
どのようにしたら求められるかという問いが、
これからの政治を導く上で重要になりつつあるからでしょう。

問題は、ニュー・リーダーの登場で片が付くことではないのです。
(これは現在の日本社会にもそのまま当てはまるでしょう)

この映画はサッチャーを支え、
しかし先に亡くなった夫デニスが、
彼女の晩年の、
認知症であるがゆえに可能でもある彼女の対話役として登場しますが、
その夫も最後は消えていきます。

夫が死んでも、
長い間彼の遺品を整理しなかったサッチャーは、
映画の最後で、夫が身につけていたスーツをゴミ袋に詰めていく。

ある意味、それは認知症を患ってもなお、
サッチャーらしい振る舞いと言えるのですが、
「それでいいの、そこまで個としていきるのですか」
と私は問いたい気もします。

しかし、認知症を患っている彼女に、
その問いかけはもはや意味をなさないのでしょう。

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2012/04/04 12:09
>あさみさん

はじめまして…(かな)。

えへへ、私は何か話題を見つけては、
あーだこーだと、おしゃべりを続けることが好きなので、
ついついブログも長くなる傾向があります。

で、ついつい長く書いてしまいました。

もし今、「ある一人の希有な女性を描いた」映画を見たいというのであれば、
『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』よりも、
『マリリン 7日間の恋』の方が私はお勧めです。

比べる前から明らかなのですが、
マリリンの方がやはり圧倒的に可愛いし、ホントに愛しい人として描かれているからです。
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2012/04/04 11:43
>Luciaさん

タブッキの母語はイタリア語ですが、
彼は『レクイエム』をポルトガル語で書いているのです。

この小説はリスボンを舞台に、
小説の語り手がある詩人に会いに、
…でも、その詩人はすでに亡くなっているのですが…
彼に「会い」にリスボンへ出かけ、
幻想のようなリスボンで、
様々な人々と話をし、食事を共にし、
最後に詩人を食事相手にしながら一晩を過ごす…

『レクイエム』の中で詩人は、名前では呼ばれませんが、
タブッキが念頭においている人物は
『フェルナンド・ペソア 最後の三日間』のフェルナンド・ペソア、
19世紀末から20世紀初頭にかけて、
リスボンに暮らし、作品を発表した詩人です。

『レクイエム』という本をちゃんと読んでいないくせに、
 (この小説は、ほとんど状況説明がなく、
  ひたすら人物の会話によって進んでいくので、
  会話している人たちの佇まいや
  言葉の端々にちりばめられたウィットのツボを、
  自分の想像力や理解によって補なってあげなくてはいけないという、
  読む側の脳細胞をフルスロットルで駆使させるような、
  とても「タフ」な小説なのです。
  そのため、いつも途中で挫折しています。)
私がこの本を愛しているのは、
会話と共に、常にリスボンの美味しそうなものを摘み、そして飲んでいるからで、
この小説には註がついているのですが、
その註のタイトルは
「本書の中で食される(あるいは紹介される)料理はつぎのとおり。」

そして各章で食される料理の説明が記されています。

美味しいものを摘みながら、延々と会話を楽しむ。

そう言うとても美味しい小説なのです。
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2012/04/03 21:02
こんばんわ 滅多に 映画を観る事が無い私ですが、
安寿さんのブログを 読んで 観たくなりました。

映画なりの限界(?)も指摘しておられ
鋭いコメントに 興味が沸きました。
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2012/04/03 20:49
TABUCCHIでググったら
日本語とイタリア語サイトが優先になるように
設定をしているにもかかわらず
トップに出てきたのはポルトガル語(?)でした。

その後イタリア語に絞ったら
いくつかの新聞のサイトが出てきましたが
TVニュースでも目にしなかったし。

作家としてはそれほど名が知られているわけでもなかったようです。
イタリアでの職業は「シエナ大学教授」が主要だったみたい。

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2012/04/03 16:38
>紫音さん

邦題に「…の涙」をつけたのは、
「女のドラマが描かれている」ことを意識させたかった
配給元の営業上の思惑なのでしょうが、
映画の内容には、そぐわないような気がします。

メリル・ストリープはいつものように達者な演技ですが、
映画としては焦点が定まらない感じがしました。

強烈な個性を持つ政治家を描こうとしたのなら、
認知症である現在の彼女と幻想の夫とのやりとりは、もっと少なくてもよかったように思いますし、
過去に首相であった人物の、老後の人生を描こうとしたのなら、
彼女のたくましさや政治的経歴を描く部分が多すぎるように思いました。

決して駄作ではありませんが、でも中途半端であるように思います。
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2012/04/03 16:24
>Luciaさん

全然話は違うのですが、タブッキ。
イタリアではほとんど話題にならなかったんですね。

日本の新聞には一応追悼記事が載っていたので、
それで私も彼の訃報を知ったのですが…。

タブッキが日本でそれなりに知られているのは、
彼の代表作『インド夜想曲』や『遠い水平線』が、
須賀敦子の訳で出版されているからだと思います。

自分の本棚を探し廻って、
『フェルナンド・ペソア 最後の三日間』『レクイエム』
の二冊を所有していることを確認しましたが、
『レクイエム』は未読、
『フェルナンド・ペソア…』は詩的幻想とでも言う他ない、
まったく掴み所のない作風で、
日本で言えば内田百閒みたいな感じだなあと思っていました。

それでもタブッキをしっかり記憶していたのは、
死に際して、迎えにくる死神を選べるのならば、
逢魔が時をたゆたうかのようなこの作家がいいと思っていたからでした。

私より先に亡くなったので、彼のお迎えを少しは期待できるかもしれません。

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2012/04/03 00:56
1日に出かけた先に、映画館があって、ポスター貼ってあったんですよ。
で、すごく気になったんですけど、予備知識なしに見に行くのに
抵抗があったので(せめて宣伝でも見てれば違うのでしょうけど…)
そのまま帰ってきました。
なるほど、邦題は余計なものが付いてるんですね(^_^;)
そういうのは私も苦手だな~。

安寿さんの日記なら、客観的判断が出来ると思って、
わくわくしながら読みました。
…むぅ、残念。
私が踏み込んで欲しいところには、触れてないのですか~。
それでも、気になって仕方ないとなれば、見ることにして、
保留にしておきます。
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2012/04/02 23:34
こちらでも少し前に公開されていました。
観に行かなかったけれど。

タッチャー(イタリア語読み)って
イタリア人にとってはどういう人物なのだろう?
やっぱり鉄の女、氷の女、というイメージが強いような気はします。



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