御庭番コーデのお涼。(忍者物語)その9
- カテゴリ:30代以上
- 2012/03/31 22:01:17
お涼は一座の中では踊りを踊らない三味線専門の「くの一」です。
どちらかと言うと雇われた領主の国の御庭番と
其の領地の中に在る神社の間の往復。
更に隣の神社と此の領地の神社との往復。
更に神社どうしの関係とは反対側の領地に住み着いている三味線の師匠との
連絡。
そして一座に加わったりと割と一所にとどまってじっくりと行動する事が
少なかった様です。
だから一座では三味線専門で、
彼女がいない時は男の座員が三味線を彼女の代わりにひいて居ました。
三味線のけいこと言って、領地の隣に住み着いた師匠の家に長い事
住んで居たりもしました。
元は鎌倉幕府の北条で名のある武士の家だったと言われた事も
在ったのですが、本人は否定。
室町幕府が、寺社との関係を強めて行った経緯もあるが、
どちらかと言うと当時は寺社が一体となって居る所が多かったので
もともとは寺社に居た侍関係だったと思われます。
雇われた領主も寺社大名と言う訳でもなく、
どちらかと言うとどこの大名も寺社を抱えていて
其れなりに大切にしていたので同じであり、
戦国時代の末期も、徳川家も武田家も一座を抱えて諸国を回らせたのは
記録に在るので、当時は巫女や一座は神社で踊りや歌を見せるのが
庶民の娯楽だったので、其の前の段階の感じで
主に神社に使えていたと言う感じである。
此の忍者村と言っても伊賀、甲賀の様な大きな村では無く、
そう言った者が集まって、自給自足の田畑を耕した小さな村を作っていて、
後々に淘汰しようとする意にそぐわない国に難癖をつけられた時に
村を家を数軒残し、後は焼き払い、
人々もバラバラに好きな道を行くと言う解散します。
それにより、かなりの山奥で更に力にならないと判断され
意にそぐわない国に淘汰される事は免れて
其の村は捨て置かれます。
時々しか見れなかったので、もう一度落ち着いてみたいです。
大体が最初からいない者なので、死んでも弔われ無い様です。
使い捨ての様で、伊賀、甲賀等のきちんとした組織に成る前は
落ち武者の集団の村の様な、神社や寺に拾われた元武士の一家とか、
修験者として、寺社に拾われて厳しい修業をして、僧に成ったりとか
色々だった様です。
どちらかと言うと、源氏寄りだったのかも知れません。
平家物語で平家の事を哀れに思うようですが、
「驕る平家の久しからず」と在る様に平家物語もそれほど平家の事を良くは書いて無いと言うのが
私は読んでないけど、様は驕る平家の末路は哀れだと言う感じの様だと聞いてます。
自分が天皇家に変わって県政を振るおうとした物と、武士として軍人として使える感じで
軍部を掌握しようとしたものとの違いで、周りの見る目は違った様です。
だから平家の落人狩りは色々な村人も協力したらしい。
その事が在ってから、其の後の時代はあくまでも軍人となるらしい。
其の軍人の頂点を取る為に戦国時代があったのですが、
問題は京の方でも自分のひいきの領主に肩入れが在ったのかも
知れないが、其の辺りは詳しくは解らない。
しかし其の時代でも、神社の修験者は関所は殆どがフリーパスで
其れは義経が関所を通る時に修験者に扮装していたので
解ると思います。
巫女も同じく関所が通りやすいのと白拍子、巫女から出た一座は関所を通りやすいのと
薬売りも手形が発行されて通りやすい。
ただし、一座は芸が出来なければ可笑しいので合って、
楽器や踊りはこなせなければならなかった様です。
徳川や、武田氏其れを間者に利用したのは有名。
だから、他の大名もしていたと思われる。
この髪型は「くの一」を思わせる・・・・
名前も「お涼」とはまたクールで「くの一」らしい
「流れ星おりん」思い出しました^^