夕奈のもう一つのバージョン(忍者物語)其の5
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- 2012/03/26 11:37:31
夕奈は京風の踊りの他に
輪っかを使って足のあんくれっとを鳴らしたり片足で回したりしながら
輪っかをお手玉の様に投げる技と琵琶説法が得意技です。
京風踊りと琵琶は母親から習っているので
其の昔は室町時代はそれなりの地位の家がらだったのでしょう。
琵琶説法と言っても琵琶を弾きながら現在の浪曲の様な
曲を抑揚をつけて唄うように話します。
フィクションでしょうが、「安寿と厨子王」の様な話や、
「切ない恋物語」「親子もの」等を朗々と歌って、
関所によっては下種な人間が仕切っている所もありますが、
彼女が一座を代表して哀しく切ない親子物を唄うと
時々、それで乱暴な無理難題を吹っ掛ける事無く
通れたりします。
『父親が死んだ後も一人で畑を守って娘を育てた母親が
やがて片足と片手が動かなくなります。
その時は大きくなった娘が畑をして母親の世話もして、更に近隣の田畑の
手伝いもして生活費を稼ぎます。
母親は寝てばかり入れないと動く手と足で「みの傘」を
編んでは、旅人が突然の雨で難儀する事もあるだろうと
木の下のお地蔵さんの傍の木の枝に「ご自由にお使い下さい」
と書いた札をつけてお地蔵さんの傍に「みの傘」を置かせた。
その傘は「地蔵がくれた傘」と呼ばれて旅人に地蔵に手を合わせてお礼を言って
使われた。
其の年老いた母親の世話の為に婚期を逃して世話をしている
娘の家が火事になった時に親を背負って火の中を逃げようとする娘を
小銭を貯めた瓶を持たせると力いっぱい土間に突き落として
娘が立ち上がって振り向いた時は母親は動かぬ足を引きずりながら
奥の方に行く姿が・・・。
助けに来た娘を長い事思っていた男が兎に角娘を助け出そうとしながら
ふと振り向いた時に火の奥で座って手を合わせて頭を下げる母親の姿が。
火の中から助け出された娘が何度も火の中に母親を助けようと
狂ったように泣き叫びますが、村人に何人がかりで押さえつけられて
娘の母を呼ぶ悲鳴だけが響きます。
娘の事を思っていた男も何度も火の中に入ろうとしますが、
村人に止められます。
やがて家が崩れ落ち、焼けた家の黒ずみの中から
手を合わせた黒い焦げた一瞬仏像かと思う様な遺体が見つかります。
娘が最後に突然持たされて後ろを向かされて
凄い力で土間に投げ出された瓶の中身を見ると
小銭がいっぱい出てきます。
娘が自分の家の畑だけでなく、他人の田畑の手伝いをして貰った
菓子売りが来たら買って食べてねと時々渡した小銭を
長い事貯めた物でした。娘は泣き崩れるばかりだった。』
此の唱を切なく哀しく抑揚をつけて唄うと関所の荒くれ男が
泪する時もあり、意外とすんなり関所が通れたりします。
私が小学校5年か6年でした。
教育実習で来た若い先生です。
彼がどう言う教育を受けたのかは知りませんが、
私は伝記がすきで、子供用の伝記の本を読んでました。
クラスに学級文庫があり、「東海道中膝栗毛」もありました。
北海道は冬は外で遊べないので、中運動場は上級生の日と下級生の日が在りました。
下級生が中運動場を使って居る時は、学級文庫を読んだりしていました。
小学生向けの日本の偉人伝の様な伝記もありました。
其の一時間だけですよ。
其の先生が熱弁をふるって説明をしました。
私は伝記で小学生向けの「平家物語」「弁慶と牛若丸」「豊臣秀吉」「静御前」等を読んでましたから、
小型の船に木の上に扇子を乗せて撃って見せよと言うのんきな戦い方に呆れてましたけど。
其の後船から身を投げて死にましたとなってたので全員死んだと思っていたら。
何とほとんどの女の人は源氏側の兵士に助けられたのは
もっと大人になって詳しい平家物語を読んで知りました。
源の頼朝の側の事は別の本で読みましたが、
静御前を子供頃に読んでいたので、どうしても好きになれませんでした。
其の若い先生はどうしたでしょうねぇ。
私一人の反論にずいぶん真剣に答えて居ました。
最後は納得しましたけど、全員が源氏側についてホッとしていました。
珍しいのですよ。「私が間違っていました」と大勢の前で認める事は。
難しく説明すると、「解らないのでもっと解りやすく説明してください」と
言いますから。
当時にしては何でも先生の言う事を「ハイ」と聞かない、
洗礼にあって、子供向けに説明をすると言う苦労を勉強したのでしょう。
可愛そうに1時間で疲れ切っていました。
ちょっと専門用語をだすものなら、「何が言いたいのか、難しくてわかりません」と言うので♪
私は祖母の口上で聞いて覚えたので、こどもながらにそう思いました。
何だかのカンだかか、雲の上から降りてきて、
ウンコをして葦でかき混ぜて、
此処を日本と決めたと思っていました。
其の後にアイヌのおじいさんが朗々と言ったのにはびっくりしました。
アイヌの家も口伝えで家々にそれぞれ伝わっているのです。
言葉が少し違うけど、アイヌのおじいさんは日本語に解りやすいようにした分だけ
こっちの方が正しいと言われました。
其の後に外国人から、旧ヘブライ語だと意味が解る場所がたくさんあるそうです。
そしてアラブ人にも蒙古斑がある人が多いそうです。
アジアの日本に行かないで、どこかでペルシャに戻った人達がいるそうです。
キルギスタンでは此処で別れたと言われてます。
詰りもの凄く沢山の旧ユダヤ人です。
北海道は縄文土器が昭和時代に小学校を作る為に掘るとだくさんで来ました。
私の小学校もあちこちに土器が並べられてました。
小学校の時に地域の歴史で証文時代を習います。
次にアイヌ時代を習います。
縄文時代の家の無さけなさ。 竪穴式住居ですよ。 それが一万年も続きます。
その次にアイヌ文化を習います。其の格差に驚きますよ。
四角い家で屋根が有るんですよ。小屋ですよ小屋。
これじゃ、縄文人は滅ぼされると思いました。
コロポックルが負けて出て行くはずです。
でも、今アイヌは縄文人になり下がりました。
当時は凄い人達と思ったけど、今は神を持たない、
熊祭りで、熊を神にささげていたけど、縄文人は其の神はいないので、
熊祭りも何の意味があるのやら。
旧ユダヤのヒツジを神にささげて食べるのとほとんど同じ形式だったのが、
どうするつもりでしょうねぇ。
首をかしげるばかりです。
アラブ人に蒙古斑があることなどはじめて聞きました。驚いています。
アイヌの文化などもあまりしらないので、興味深くよませていただきました。
・・・・・・
でも、いくら幼いときでも日本の誕生がウンコをかき混ぜて・・・ (^^)
長い事、哀しいねつ造自国の歴史に北海道民は苦しめられてきました。
沢山ある北海道縄文時代の歴史館は青息吐息の酷い状態でした。
ストーンサークルも発見されているし、北海道独自のストーンサークルもあるのです。
余市等は 環状列石墓もありますし、フゴッペ洞窟遺跡があります。
まだ、本当にちゃんと全てが調べられたとは思えませんが、 シベリアのサカチ· アリアン遺跡の壁画と
絵が似ているそうです。
↓背中に羽の生えた人がえがかれているのが特徴です。此処に付いた人数を特徴を記した様でもあります。
http://www3.ocn.ne.jp/~yoiti/fugoppe.html
アイヌ文化はずいぶん遅くなりますが、実際にアイヌと呼ばれる人達が北海道についたのと
文化として成り立って行く間には時間が掛かって居る様に思います。
オホーツク文化がありますから、どうやら北方から大挙して一つの高度な文化が来ています。
其の後に、更に高度な本格的なアイヌ文化が出来ています。
モンゴロイドですが、日本にも定着しましたが、アラスカ、カナダ、北米、南米まで
行ってます。
そして何とアラブ人にも蒙古斑があります。
北方ルートで日本へ行く人達とペルシャ辺りに戻る人たちと別れた様です。
旧約聖書には、在る場所について神を守る人達がとどまって、
一旦イスラエルかどこかの本部に戻って、多くの人達と本格的に
その地を探したが、道に迷って彼らと合う事が出来ず、更に南下したとあります。
或いはそこで残った人達がアイヌの人達でしょうか?
アイヌのおじいさんに教えて貰った伝承はこの地のとどまって神を守る事です。
神は唯一の神です。神棚も見せて貰いました。
木の小枝の柱で昔の教え通りの作り方です。
そして、朗々と口伝えで伝わった日本の神話と似ている言葉を
長々と言いました。
卒倒しそうでした。自分達の言葉の方がもともとの言葉だと言うのです。
雲の上で葦でウンコをかき混ぜて日本としたと言う奴です。
そして神を怒らせた天罰についても話ました。
アイヌの人達の方が一つ多かったのです。
ありがとうございました。
私も外国人に日本の神話の意味が旧ヘブライ語だと意味が解ると言われた時はビックリしました。
子供の頭の解釈で、「雲の上で葦でウンコをかき混ぜて日本と決めた」と 思っていましたが、
日本が神を信じる世界に取って重要な国だと、日本人以外のその頃の世界史を調べている人達が
大勢知って居る事も知りました。
そしてその事は韓国も知って居て、其の歴史の中にねつ造して何とか日本に入りたがっている様です。
其の為、其の歴史を利用してちょっと強引な捏造歴史を作ってます。
更に其れを定着させようと必死の様です。
それは見極めて、「ああ、これの事か」と見極めれば良いだけです。
後は其れを外すと面白いですよ。
アイヌ語はペルシャからシルクロードに伝わった、色々な民族の伝達の言葉に似ているそうです。
そして現在のロシアの千島列島の上あたりの川の近くに住んでいた民族と繋がっています。
それ以前に一万年も在ったとされる縄文人です。
竪穴式住居でアイヌが持って来た文化との違いを小学校時代にがっくりするほど、
しっかりと地元の歴史として教えられました。
↓私達が小学校の時代に地元の歴史として教えられたのと似ています。
http://jomon-heritage.org/jomonculture/
先住民族な訳が無いのです。
北方から来て、家の作りも違う神に対しての考え方も違う、コロポックルを追い払って北海道に住んだのです。
国宝の正倉院の琵琶にラクダの模様が在りますが、唐からと解釈されてますが、
日本では作れないので唐と解釈していますが、本当はそうじゃないのかも。
ペルシャ辺りかも知れません。
アイヌはこの地にとどまって神を守る人達。
もっと多くの人達が更に南下して行きます。
そして別の人達が元のルートを戻って、状況を知らせます。
南下した人たちは、其の後どうしたのでしょう?
オホーツクから来た北方ルートの人達はどんどん南下して行ったのは
その頃の日本はどうだったのか?
何故日本人はモンゴロイド(蒙古斑)が在るのか?
最近は、民族が混ざって中国、韓国でも、蒙古斑が出るそうだし、
日本で蒙古斑が出ない子も生まれているそうですが。
アイヌの神のお話、彼らが先住民族では無いというのは、驚きました。
その驚きは、昔、英会話の学校でイギリス人の先生に、カマクラはアイヌ語で、地名はその頃の名残だと、昔はあの辺りもアイヌが支配した土地だったのを、後から来た民族が占領したのだと聞かされて以来の驚きです。
その時は、あまりの驚きに、詳し訊ねることもしなかったのですが、そんな話を聞いた事がありますか?
わたしは、あまり日本の歴史を知りませんし、大和朝廷以前の事は歴史というか、神話めいた物語としてしか知りません。
そのイギリス人に詳しく聞けば良かったのですが、テーマがイギリス史に移ってしまい聞き損ねました。
少し調べる必要がありそうですね。
今、あの時の疑問がふたたびよみがえってきました。
ちょっと、調べてみます。
わたしは、そういう歴史を聞いた事がなかったので、凄くビックリしました。
私は祖母から本州の歴史を時々知らされました。
祖母に取って祖母の家のルーツは知らせておかなければならない物で伝えなければならない物でした。
訳が合って、祖母の判断でそれも祖母自ら手放しました。
北海道にも北海道の歴史があります。
其れはアイヌによって現在ねつ造され改ざんされ、自らアイヌは自分の神を裏切りました。
何と神を否定して先住民になり下がったのです。
北海道にはもともとは縄文時代が長い事ありました。
私の小学校を立てる時も縄文土器が出てきました。
北海道の多くの土地は粘土質です。だから原野が多いのです。
其の粘土を使って土器を焼いて居て、土器も埴輪も出て来てます。
小学校には土器の置物が普通に職員用玄関の前に飾ってありましたし、
階段の踊り場にも置いて在りました。
そこいらじゅう土器だらけです。社会の歴史の授業で普通に粘土で土器を作らされて、うんざりです。
縄文人の家は竪穴式住居です。其の後にアイヌ文化が在りました。何と建物が全然違います。
四角い家に屋根が合って上が神社の宝物庫仕様がアイヌの家の特徴です。
此れだけ高度な文化を持った人達が北方から北海道に神を持ってやって来たのです。
今のアイヌが自分達が先住民族だとする前に、昔アイヌの御爺さんと話しました。
日本の神話を私がおばあちゃんから口頭で伝えられたより朗々と言いました。
学校で習ったのではなく、口頭で伝授されたのです。
日本人が戦前、戦中に習った神話と似ていますが違います。
アイヌの御爺さんはこっちの方が本物だと教えてくれました。
昔のアイヌの家には神棚が在りました。こうやって作ると伝承された通りの作り方です。
神道と同じ唯一の神で、この地に留まって神を守るのです。
守るのは土地では無く神です。家と少しの庭が在れば、狩猟して、つまり昔の旧ユダヤ教の考え方です。
日本に在る沢山の神社の一つです。
北方ルートでやってきて一部が北海道に残って、更に多くの人達が南下して行った。
今アイヌは歴史を捏造し、神を否定した。
日本の神道と、キリスト教と、イスラム教と同じ唯一の神を否定した神への裏切り物です。
関所と言ってもその頃は武士道とか言う美学も儒学を取り入れた物も画一されて無く、
また元農民出身も多く、
更に長い闘いの日々で父を亡くして、母子で生計を立てている物も多く、
自分もそんな環境で育った者も多く他人事で無い話だったのでしょう。
荒くれ男達にも、置いてきた母も在るし、置いてきた妻子も在るのでしょう。
どちらかと言うと無法地帯に近い中に領土の国があったり、独立した小さな村があったり、
領土の関所が在ったり、勝手に作った砦が合ってどこかの領主に淘汰されて居たりと
言う時代でした。
明らかに山賊の砦だと、面倒なので闘って当然の様に勝って余裕で通りました。
私もすんなり関所通してあげます。
私は子どもの頃から歴史と地理が好きで、よく時代小説を読んでました。 多くの舞台は奈良や京都(それから関西)。 そのお寺や神社、それから遺跡を訪問するのが好きでした。 一人旅も何度か。 おそらく、日本の歴史が好きだった母の影響だと思います。
歴史を知ることで、今の世の中が理解できると思います。 そして、自分と社会との係わり合いも。 短い人生は、長い歴史の一瞬の出来事にすぎませんね。 今の世しか知らないのは、まるでルーツのない人生のように思います。
ロイ様がお子様を日本の歴史のある所をいっぱい見せたかった様に
私も歳を取るにつれて日本の歴史にひかれる様になりました。
昨年の9月にお伊勢参りはすませました。
祖母にお伊勢様と靖国神社は一生に一度は行く様にと言われてました。
日本人ならせめてお伊勢様だけでもと何とか行けて良かったです。
近所の人に赤福のお土産を配ったら、多くの人が若いうちにとっくに行ってました。
歳を取ると病気成ったり歩けなくなるから、さっさと若いうちに済ませるとの事でした。
母も40代に叔母とツアーに入って行きました。
祖母が靖国神社に行った時は東京まで私がついて行きました。
私は東京のデパートに、祖母は靖国にとその日は解れましたが、
その時行って置けばもう済んだのにと思います。
お伊勢参りは一応身を清めたと言う山の奥の温泉で前日に身を清めて行きました。
不思議な事に中国人ツアーの中にも「お伊勢さん」が入っているのをテレビで見て首をかしげます。
神を否定している国の人間が行っても、意味が無いのでただでさえ混んでいるので其処は
外すべきだと思います。
中国人には意味不明の場所で行く所ではありません。
其の時間は買い物に回すべきです。
次に娘に京都と嵯峨を奈良の万葉の世界を誘われてます。
ロイ様がお子様を連れて行った意味が何時かお子様に通じると思います。
日本は「八百万の神の国」で、この国の本当の歴史を世界の人が知ると驚くと思いますよ。
私は外国人の世界史の研究者の知人から、日本の凄さを日本の存在の意味を知らされましたけど。