啓蒙なき世界
- カテゴリ:日記
- 2012/01/23 20:15:44
あらゆる事象は、その立場、見方によって、異なった相貌を見せる。
そこには肯定も否定もない。
ただ事象があるにすぎない。
肯定も/否定も/善も/悪も...なにもかもが単なる判断という名の人工物に過ぎない。
他者に対する判断は、好嫌いでもいいだろう。
しかし、自己に対する認識は?
判断基準に対するそれは?
そう簡単にはいかない。
それで世界が変わるからだ。
あるいは、自己という名の存在そのものに対する認識が変わってしまうからだ。
そこには雲泥の差が、天と地ほどの、天文単位にも匹敵するかのような差がある。
だがそれは、噂を信じるか信じないか程度の些細な違いでしかない。
光速で駆け巡る外部記憶が肯定と否定を繰り返す。
そして、その相貌は合わせ鏡の中の自らのように相似的に無限増殖するフラクタルのごとく問い詰める。
「お前は誰だ? 誰なんだ」と。
コメントありがとうございます。
我思うが故に我あり、コギト・エルゴ・スムですね。
しかし、デカルトの格言のそれは、私には未完成な気にもなるのです。
我思うが故に我あり、しかして、その我とは何ぞや?とw
コメントありがとうございます。
確かに、外部環境情報が感覚器官から入力され、それをセンスでフィルタリングし、フィードバック出力として還元するものが自己だとするのならば、マクロかもしれませんねぇ・・・。
そう思っているものは、そう思わせるものはなにか?
と、突き詰めると、無限に広がるフラクタルの万華鏡の中に投げ込まれた気分になりますw
それは、あるかもしれないし、ないかもしれない。
それは、どこから生じてどこへ向かうのか?
届きそうで届かぬ、己が姿を追うは、ウロボロス
それをあると信じ込むところから、果てしない自己探しの道がつづくのかしら・・?