蛇の囁き
- カテゴリ:日記
- 2012/01/18 00:52:00
その実だけは決して口にしてはいけないよ。
そう言われると、口にしてみたくなるのが、人のさかだ。
かく言う私もまた、すでにその実を口にし、その味をしめてしまった悪党だ。
その実の名は「狡猾、卑怯」などと呼ばれている。
その行為は、倫理的/道徳的に背反しているが、罪ではない。
だが、悪ではある。
災いを、禍をもたらす可能性のあるものである。
だが、罪ではない。
それを、禁止するものはない。
あるとすれば、良心の痛みだけだ。
しかし、その実は甘美だ。
失うものがあるすれば、品格と信用だが、空間的制約を超越するインフォメーションテクノロジーは、その負いを帳消しにしてしまう。
灰色の実から得らるる甘美は「悪徳」だ。
それを口にすることは下品で、それを堂々と行うのは恥だとされている。
だが、誰もそれを止めることはできない。
それは罪ではないのだから、罰することはできはしない。
せいぜい「卑怯者」と揶揄されるくらいなものだ。
その実の甘美に比べれば、取るに足らない。
故に世界には「悪徳」という影がはびこる。
それは白昼堂々とはしてはいないが、どこにでも存在している。
そして、耳もとで甘く囁きかけるのだ。
さあ、お前えも、騙して、盗んで、奪ってしまえ、と。
コメントありがとうございます。
その堀を掘ったのも自分で、堀を埋めてしまえるのも自分だけ・・・というか、これに対する認知的抑止力を発揮できるのは教育のみではないかと思います。
即効性のある手段はなく、時間をかけて何世代にもわたって構築するしかないかも・・・アプリのインストールみたいに洗脳はできませんw
コメントありがとうございます。
「悪徳」の概念そのものがおそらく人工物じゃないかと私は思います。
動物には、(意志疎通不可能なのでその判断を下せるわけではないいですが勝手な思い込みによれば)、自然界には「悪徳」そのものが存在しないのではないでしょうか。
あるのは生だけ。
(死という認識もあるかどうかあ微妙です)
ある種「悪徳」は精神における、生物学的生命活動と人類学的文明社会における生命活動のはざまに広がる葛藤でであるかもとおもいつつ、個人的には、技術による増強で、生物学的限界を超越した精神に触れてみたくなる願望場あるのかもしれません。
サイバネティック・オーがニズム対するある種の崇拝or狂信的期待ですw
人間も動物の一種ですもの・・・だから・・。