足の裏に影はある? 哲学的思考の始め方
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- 2009/05/31 10:01:13
足の裏に影はあるかないか? つぶやいてしまったら、
何人もの人が伝言板で答えてくれちゃって、
メンドウな宿題となってしまった;
★0:ほとんどの人の答えは、「ある」でした。
影って、光が遮られたところにできるのだから、
地面と足裏の間には影あるよね!
みなさん正解!
はい、終しまい!ってワケはないですね…
わざわざ問題してるっての、フツウの答でいいの?ってことだもんね。
この問題、哲学者・入不二基義さんの『足の裏に影はあるか? ないか?』
にある話で、著者の子が小学生の時、パパに問うたのだそうな。
「地面から足を上げれば影はあるけど、くっつけた時にあるのはヘンだ!」
(この本、誰でも読めます。お薦め。)
★1:さて、光がなければ影がある、
足と地面の間で光は遮られる、
ゆえに影がある。
日常的感覚ではそんな感じですね。
なら、どうやって確かめる?
覗いて調べる? でも足と地面が離れちゃダメ!
超マイクロカメラで、微小なスキマから覗いたら?
それもダメ!
どんなにわずかでもスキマがあるんじゃ、
足が離れていることになっちゃう。
つまり、この問題、
科学がどんなに発達しても確かめようもない問題なんですね。
科学が問えない問題って、霊だとか超常現象なんかじゃない
(そういう怪異現象なんかは、実は言語学や精神分析学で説明つくのだ。
そうしたことは京極夏彦の小説が見事に描いています)
ごくフツウの日常の、ただ、ホンのちょっと皮をむいた所に潜んでる。
そうした謎を言葉であぶり出して考え抜くのが、「哲学」なんですね。
他方、「文学」や「芸術」は、そうした隠れた世界に、
直に触れられるような仕掛けだ、とも言える。
★2:本題に戻ると、完璧に密着しているという条件では、観察では確かめられない。
となると、「ある」とは言えない。
観察できる空間がないのだから、「ある」なんて確かめられないのだ。
その意味では、むしろ「影はない」と言う方が正解です!
しかし!
確かめられないのだから、実は「ない」とも言い切れない!
結局、「フツウの意味」、またその日常的常識と繋がっている「科学的意味」では、
あるともないとも言えない、どうしても言えないのです!
確かめてAかAでないか決める、そのような「有る/無い」という意味では、
足裏の影の有無は、絶対に確かめられ《ない》!
★3:ん? 《ない》って言葉が出てきましたよ!
でもこれは、フツウの意味で影が有る/無いといった、
そのような有無の基準では確かめられない、
この、確かめられない、という意味で、影は《ない》! という、
さっきまでとは違う《ない》ですね。
問題の答えは、この段階でやっと「一つの形」となります。
影は《ない》!
普通の意味では有無を確かめられないから、という意味での《ない》。
「有るか無いか」どっちか、という基準(二値原理、排中律)が効かない、
それを超えている、ってことでの《ない》。
これが、この問題の「とりあえずの答え」となる。
哲学に最終解は《ない》、常に途上なので、「とりあえず」なんですね。
★n:当のエッセイで入不二さんは、この後に逆方向へのオマケをつけています。
どんな影でも、光あってこその影だし、
影があるなら、そこに光がなければならない。
単に「見えない」のは影でさえない。
すると、影の有無を問えるような場、とは、とにかく光が満ちている場だ。
こっちの方向でも、光や影が、
普通の意味で、「有るか無いか」という基準が効かない、
それを超えているところでの、光が《ある》ということが言える、
と、入不二さんは論理的妄想を拡げます。
この思考は実に面白いのだけど、論点がちょっと滑ってる。
でももう当初の問題を越えているので、ここでは紹介だけ。
★∞:哲学的思考って、こんな風に、日常や科学の判断にマッタをかけて、
その前提やそこに隠された問題自体を問うんですね。
今回のはかなり抽象的な思考実験だけど、
こうした哲学的思考って、数学や科学みたいな専門教養なしで日常と地続きだし、
哲学的思考を少し習得すると、日常的問題も新鮮な姿を見せてきます。
たとえば、北朝鮮に懲罰を与えるか否か、マスクするか否か、麻生か鳩山か、
その他、恋でも仕事でも二択問題だらけだけれど、
一旦マッタをかければ、二択以外の無数の選択肢が隠れてること分ったり、
常識の基準自体をチェックしたり、世界の別の姿を見る、
日常が隠している幸せのカタチを探る脳トレに、哲学はなる、かも~❤
いきなり、鋭い❣すごく面白い❣www
詩蘭もその視点は考えなかったなぁ♫ 入不二さんは考えたかなぁ?
足の裏自体の影は、見えるし、ありますね。(現象としての影)
でも、その足に遮られた側(ガラス面)できる影は見えない。
別の観点から見れば、当初の、入不二息子の問い自体を問い返す答え、でもあるかな?
かのチビ君は、足を地面に着けた時、その足と地面の間には…?って問いを出したのだけど、
その際、地面が不透明で不可視だったことが前提されていた。
しかし、その地面が可視だったとしたら?
この問い自体が、そうした方向での答の可能性を隠す(見えない影にする)ことでのみ、
現われ、見えるものとなっていた。
う~ん そこからさらにイロイロ考えられそうです。
今日はこれから、日本美術の研究会なので、アタマが抽象思考になりきれないw
素敵な展開、ありがと~❤
(´∀`*)ウフフ(´∀`*)ウフフ
あはは;; あまり期待されすぎないように~~
ニコ日記、重い話にしすぎたくないし、
でも、ポイントは、きゅッとしてみたいのだけど(ウエストかいw)
昨晩、時間取れなくて、まだ、明解にマトメきれていないので、もうちょい……
その前にもう一度詩蘭さんのお話をじっくり読んで、
自分でも整理してみま〜す♪♪
楽しみです^^
06/10 22:23のコメントで書いた
「時代やハヤリスタリを超えて、ホントウにワクワクさせ続けられるる作品」
という言い方したけど、他方で、
ある特定の時代や地域や人々の間で、ただそうした特殊な環境に即してこそ、
何がが起こる、そうした作品や試みというのも、ありますよね。
音楽でも美術でも、ある人々の生活と密着した表現、その中でこそ生き生きするもの、
というのも、もちろんある。
それは、いわゆる現代アートに限らず、近代以前の祭や儀礼などと一体化した祭礼もそうだった。
現代のポピュラー・アートなんかだって、規模は巨大だし、
市場という特殊で面倒な回路 (とその問題) を含んでいるけど、
生活に密着して機能する、という点では、
そうした脈絡一体型のアートだと言える。
これも、受け手の側こみの問題ですね。
昨晩ニコ、しばらく休むと言われていたのと、
下のコメで書いたように、長いお応えになっちゃいそうだったので、
ちゃんとした日記にしようとして、まだ、仕上がってないのだ;;
というワケで、チョーコさんとこにも書いたように、
下のコメントへの直接的なお応え、ヒトコトだけ先に…
見る側、受ける側の問題、もちろん!
それが、中心問題の一つです。
チョーコさんの思いと、対立するものでないと思う。
ただ、詩蘭は、アートを語る素敵な言葉にも、いくつか、
間違いなく出会ったことがあるので、
言葉は届かない、とは絶対に言えない、というだけなのです。
同じ作品をみても 感動する人も
それが誰が見てもいいと思うものでも感動できない人もいるはず
人それぞれ違うから
作品に同調できるものがその人にはすばらしいものとなるのでは
またいつか よろしく!
すこし整理して、新しい日記にします(^^;
というワケで、もうちょい待ってね。
刺激してくれちゃった、ぴよぴよさん、チョーコさん、他の皆さま、ありがとう…?
どちらのコメントも、詩蘭の前のコメントに深く絡み合っているので、いっしょにお応えします。
(その内、このアートの美学を日記にもしてみたいと思うので、ここではコアのところだけ)
★:まず、この脈絡に即した限りでの、あくまでその範囲での、詩蘭のアート観について。
詩蘭は、実は実は、とんでもなく前衛主義いや前衛趣味なんです(^o^❤
実はこっそりひっそりコンセプチュアルな作品も作っちゃってるしw
他方で、先生はダ・ヴィンチだった~って告白してるようにw
古典的な写実的絵画も大好きだし、自分でも古典的な写実絵画描くのも好きだし❤
前の音楽日記でも書いたように、クラシック音楽も大好きだし、現代音楽にも好きなの色々あるし…
それでもって、もう一方では、そうしたものを言葉で徹底的に考え抜くことも大好きで、
美学や芸術哲学や一般の哲学などを読むのもするのも大好きです♡
(ただし美術評論は、感心できたモノは、ごくごく少ししか出会ったことないよ←チョーコさんへ)
というワケで、作品も言葉も、良いものについては、全く差別する理由がないのだ
これは、<実感>の話です。
美術でも音楽でも文学でも、前衛でも古典でも、作品でも評論や哲学でも、西洋でも東洋でも、
良いものは良い❢
そして、どのジャンル、どの時代のものでも、
ツマラナイものは、ツマラナイ❢
そして、大多数は、あまり面白くない (残念なお知らせですけど)ww
★作品と言葉について
というワケで、チョーコさんのコメントには、賛成半分、異論半分です。
というのも、作品の解説が陳腐になる、というのは詩蘭もよく知っているけど、
大体の場合、「その言葉」 がツマラナイ言葉、のが理由のようだよ。
逆に、分析を読むと面白そうなのに、作品は陳腐というのも、しょっちゅうあるでしょ
(誰の、とはいわないけどww)
それどころか、多くの人を、しかも時代やハヤリスタリを超えて、
ホントウにワクワクさせ続けられるる作品なんて、本当に少ししかない。
言葉も、同じでしょう。
どちらにも、多くを期待しすぎてはダメだし、初めから陳腐と決め付けてもイケナイと思うのだ。
★前衛について
もう文字数限界なので、次のコメントで(^^ゞ
感想で書けば
ある作品(美術系)
言葉でその作品を説明、解説すると必ず陳腐になります
言葉では表せない何かを表現しているんだもの。。
ありがとうございました
確かにおっしゃる通りですね。
既成概念を!という話ですでに概念を形成している。。。
考え始めるとこんがらがっちゃって難しい。。
自分の仕事の分野でもなるべく「客観性」を追い求めるようにいわれるけれど、
(研究などに主観的な考え方を入れてはいけないという考え方ですが)
客観的にといって使う数字にだった既に主観が入っていたり。。。
というか、どんなことにでも判断する事が入るときには、客観性の中に主観が入る。。。
でもさも主観が入っていないように客観的に表示する。。。
これがなかなか難しいなあと最近よく思います。
考えてみると本当に生活のいろいろな所に
パラドクスが存在し、その中でもがきつつも皆何かを成しているんですね。
私も私の仕事にかかわることについてちょっとでも整理できたらいいなあ〜^^
ある正直者のクレタ人が言った……「クレタ人は皆ウソつきだ!」
この発言、真実ならウソになる、ってヤツね。
(ただし、この発言自体がウソだったら、発言者自身がウソつき
…他に正直者がいてもよい…ってだけで終わるのだけど)
前衛芸術に関しても、似たパラドックスが出てきます。
A-1:前衛芸術は、今までの体制的な規範を打ち破る。
ところが、この文章A自体が、「前衛の規範」 を示しちゃっている。
だから、
A-2:前衛は、この規範Aも打ち破らなくてはならない。
しかし、ならこのA-2についてもまた…
ということになって、
だから、前衛は不可能(でなくとも、どこかにゴマカシがある)、という結論に至る。
これは実は、モダン・アートの価値観の根っこに潜んでいたイカガワシサなのですね。
他方、古典的あるいは大衆的な美学や芸術観には別の謎がある。
B:芸術は語りえない。(感情の実態は人には分からない~感覚は言語で尽くされないetc.)
-B:芸術は語りうる。(実際、みんな盛んに語るし、評価や歴史も存在する。なければ論争もできない)
(芸術を、恋や愛に入れ替えても、同じ話になります)
このBから、Aの問題を捉えなおすと、さらにややこしいことになりますw
ほとんどの芸術関係の議論は、
どこかで、このパラドックスの迷宮に関わっちゃっているのだけど、
通り過ぎちゃっているようです。
まあ、詩蘭も、このアリアドネの糸の縺れ、
なかなか綺麗に解きほぐせないのですけれど、
なんとか解きほぐしてみたいなあ~
クレタ人のパラドクスみたいな。。
う〜〜ん。。。。世の中のごくごく身近なところに、
こんな難しい問題があるとは。。。。。
最近、勝ち負けみたいなかんじで、なんでも2択になりがちですけど、
そうではない選択肢というのを考える
別の視点から考えてみる、
そういうことで世界ががらりとハッピーになるのはほんとびっくりします。
だから、きっと詩蘭さんがおっしゃっているように、
哲学はきっとなるのではないでしょうか^^
^^; ふは……詩蘭自身、コメントしてて、何度か@@ふら~っとしたのだw
それを追ってくださって、ありがとう、というか、すみませn、というか
お茶でもどうぞ( ^^) _旦~~
軸……地動説って考えると、
宇宙の軸って、どこにあるか分らないんだよね。
少なくとも、地上にはない。
でも、あのホームズさんは、地動説を知らなかったんだ!
ある日、ワトスンくんがホームズにそれを教えたら、
そっか~!知らなかったよ!って答えて、でもすぐに、
じゃあ、忘れることにしよう、って答えて、ワトスン君を呆れさせるのだ。
地動説が科学的に正しいからと言って、
明日、太陽が昇って沈む、つまり、天動説的な世界を生きてることには変わりないからね。
そして、天の動き方は、
人の数だけあるのですね。星たちの輝き方も❤
自分の軸はどこだぁ。。。
また今度きまーす
仏教的思考は、「すべては縁において起こる」 とする<縁起>を、
世界のコアに見出していきますね。
それがもっとも洗練されたのが、龍樹の思惟のように思えます。
京極の『鉄鼠の檻』で様々に引かれる「禅の公案」もまた、
思考の檻から逃れる振る舞いの式、でしたね。
仏教的思惟は、ギリシア~キリスト教を経て近代に至る、西欧的思惟の檻を、
その憑き物を、落す、媒体となりうるし、現に、現代哲学の先端部分は、
そうした傾向をハッキリと示しました。
現代哲学の極北であったジャック・デリダが展開した 「脱構築」 と言われる思考は、
まさに、構築された思考や法の不完全性(修繕できるものでなく、構造的な不完全性)を暴き、
その檻が、実は当初から脱臼していることを示す、その意味で、正に憑き物落しの哲学でした。
(京極のミステリで中善寺が使う技は、実にデリダ的です)
確かに、モノゴトを、実体と属性、主観と客観、心と物、そして法則と自由、保守と革新、など
二極の対立と拮抗関係において捉える西欧的思惟は、
観念的にも現実的にも、20世紀には様々な限界を露呈していた。
しかし他方で、そのような緊張関係で世界を捉える思惟は、
アジア的・仏教的思惟のようにイキナリ悟りに至れない分、
その緊張と苦闘の中で、他の文化圏ではなしえなかった 「発展」 を実現できたという面もある。
仏教的思惟も、それはそれで一つの檻ではあるわけで、
その檻の隠微な働き方は、それこそ『鉄鼠の檻』で見事に描かれていた。
上記デリダも、そして今日、もっともラディカルな哲学を試みているジジェクや永井均、
この日記ネタの入不二らの哲学が用いる手法や「式」 も、西欧近代哲学の式ですし、
仏教的憑き物落しもキリスト教的な論理と緊張を媒介していた。
(入不二さんは臨済宗家系にあり、入不二の名は『維摩経』からだそうですが)
不立文字に至るにも、言葉を通らねばならない。
人は、単なるボケとサトリの同じさと隔たりの間で、螺旋的に進むしかない。
螺旋で一段上がると、円状の同じ位置に来る…「行く者は行かない」
と同時に、横から見ると、いくらか上か下に移動している…「行かない者は行っている」
西欧古代の賢人の言う「飛ぶ矢は飛ばない」とも、螺旋状に響き合います。
憑き物落し、楽しいですね!
龍樹の「行く者は行かない」みたいだな(笑)
「悪魔の証明」 ときたか♪ ある意味、正しいかも❢
オトナが、コレが正しい、と信じているその正しさや知識を、
もう一度、実はそれは、ただ、そう信じているだけの幻想かもよ!
って、問い返しちゃうのが、哲学、なんですね。
その意味では、世の中の正しさや基準を、やっつけちゃうこともある、って意味では、
哲学的思考って確かに 「悪魔の証明」 的なものかもしれない。
もっとも、この段階に来ると、天使と悪魔の区別も怪しくなっちゃうけれどね。
天使だって、それどころか神だって、実は悪魔じゃん、って可能性がある。
科学って、まず、物理法則や数学の論理は正しい、って信じておかないと成り立たない。
(素人は、確かめられないから信じるしかないし、専門家は、マジに信じないと学が始まらない)。
宗教は、実は単なる幻想でも、まず信じないと、信仰が起こらない。
というワケで、科学や宗教と比べても、哲学というのは、不信心の権化であって、
その意味でも、悪魔の証明、かも。
しかも 「証明」 ということ自体の権威も、どして?ってやらずにいられないのだから、性悪だねw
でも、だからこそ、信じ込まされている色々な 「檻」 を破り、
「憑き物」 を落すには、哲学的思考こそ必要だし、
しかも、科学と違って、誰でも日常の思考で、目の前のどんなことについてでも始められる、
その意味では、もっとも親しみやすい、なんつ~か、脳味噌のスポーツでもあるんです❤
(物事を難しく考えられず、感覚的に生きてる人間なもんでw)
なんていうか、詩蘭さんはすごいなぁ。
長かったけど、とても興味深く、面白かったっす^^
あはは…よけいなご苦労をおかけしてしまって、すみません(^^ゞ
タイヤの接地面、マーチさんらしい応用だけれど、
ちょっと問題のコーナリング・ラインからスライドしちゃってる、
いや、というより、マーチさんは正規のアタック・ライン通っているのだけど、
この問題自体が、通常の最速ラインをパッシングする、隠されたラインを探すこと求めているのですね(^o^)
たとえば、普通の溝付きタイヤやウェット・タイヤなら、溝と地面のスキマに影があることを確認できる。
でも、それでは、タイヤと地面が密着してるとはいえない。
他方、溝なしのスリック・タイヤだと、地面にビッシリ密着しますね。
その密着した時、その密着面に影があるかどうか、(密着面積の大小に関係なく!)
ということが、ここでの問題のコアなのですね。
で、完璧に密着しているとしたら、そこをノゾキ見ることもできないし、できてはならない!
(現実には、分子レベルまで行けば、隙間だらけ、とも言えるのですが、
これは問題の狙いは、絶対に完璧な密着を想定している。そうでなければ、
スキマがあるという想定では、「あえてこの問題を問う意味」 が無くなってしまうのですから)
すると問題は、完璧に隙間がないところに影はあるか? ということになるワケです。
完璧に隙間がない、だから普通の意味では、影があるともないとも言えなくなってしまう!
「あるともないともいえ 《ない》」 という特殊な意味で、
この問題設定に適切な答えは、影は 《ない》、ということになるわけです。
(去年のドイツGPで、一人も抜くことなく、予選18位から2位に入賞したピケJr.が、優勝しちゃった!
そんな、どこかとぼけた、しかし優勝には違いない、そんな答え、かな? いや、これは違うかw)
うーん、自分には難しいです、(・へ・;)コマッタ
ようは、F1マシンのタイヤはあんなに大きいですが、
接地している部分は、ほんの僅かなんだよという事でしょうか?
あれ、何か違っているかな、でもF1バカだから、まいっか (^_^;)
そだよね~、どっちもホンモノだし、でも他方から見たら、どっちもホンモノでない…
詩蘭にとっては、ニコ・アヴこそ、ホンモノのアヴにいちゃんだしね!
で、そうなると、アヴちゃんの言うように、
なら、そのホンモノって何さ? ってコトになるよね❤
しかも、しかも! 「それっぽく答えてみました」 って答えが、面白い!
「それっぽく」、というと、 「ぽく」 でない 「それ」 が、
どっか別にある、ということを予想させる!
「ぽく」 でない 「それ」 って、ある意味 「ホンモノ」 的な何かだよね。
この場合、「哲学っぽい」 に対して、「哲学」 そのもの、かな…。
では、「ぽい」 方は、哲学ではない、哲学のマガイモノ?
しかし、それを分ける基準は、どのようなもので、どこにあるのだろう?
たとえば、長さの基準は、今日では 「メートル原器」 というものに基づくことになっています。
A社のモノサシとB社のモノサシ、微妙に違うとして、どちらが正しいかは、
最終的には、そのメートル原器で測られる。
でも、その原器自体、どれほど厳密に作られていても、
物質である限り、大きさは変化する。
それが変化したことは、どのように測る?
他のモノサシの長さは、あくまで、原器の長さに照らしたもの。
原器の1メートルとは、それ自体、けっして測られない、
その意味で、メートル原器には、長さが 「ない」!
ホンモノや基準というものには、そうしたイカガワシサがあるよね!
(この話も、入不二さんの本に入ってる 「「ものさし」の恍惚と不安」という話に引っ掛けてます。
また、アンダースンの『地球人のお荷物』というスッゴクかわゆいクマ型宇宙人大活躍のSFでは、
こういう話が満載です)
哲学的に答えると、両方本物でもあり、本物ではないって感じ?
もっと言うと本物って何?って答えかな?
それっぽく答えてみました。的外れ?(*≧m≦*)プププw
アヴはしーちゃんみたいに賢くないから、頭から煙が出そうだよ。
オッケ~?
ではでは、アヴにいちゃん、
ニコ・アヴとリアル・アヴ、どちらがホンモノのアヴちゃんか?
そして、ニコ詩蘭とリアル詩蘭、どちらがホンモノの詩蘭か?
けっこう難しいぞ~❢
自分のコトだって、謎だらけ、なのだ~❤
哲学っ子、学校では先生を色々、困らせていそうだね! 詩蘭もだった(^o^)
パパの方は、ネコちゃんの言うように、
すでに、哲学者としての作法を身に付けちゃっていて、
しかも、入不二さんは、現代の哲学者の中で、もっとも明晰な人だから、
問いの論理的組み立てが、図式的になりすぎるという面もある。
それで、むしろ、この問題が開く、もっとコワイ 「妖しさ」 がクリアカットされちゃう。
とはいえ、入不二さんの哲学の魅力というのは、
問題を、それを支える仕組みの方から問い返す、その際の明晰さにあるのは確かで、
また、その時、当初の問い自体が、実は、そうした隠れた仕組みによって作り出されていることを示す、
その、上へ下への往復運動を、しつこく見出し続ける、その際の技の切れ味にあるようです。
でも、前の「勉強」カテゴリ日記のコメントで書いた、永井均さんの哲学の方が、
問いを考えながら、どんどん自分自身、分らない方へと進んでいく凄味は、ずっとありますね。
明晰な切れ味は入不二哲学だけど、芸術的魅力は永井哲学の方かなぁ。
いやいや、問題自体はね、普通の問題なんですよ~(^^)
だって、小学生のガキんちょの疑問なんだし!
ただし、普通に分った、というところで止まらないで、
「それ、本当にホントなの?」 って、ドコまでも問い続ける、
という、答え方の方に、ポイントがある。
オトナは、いつの間にか、当たり前のコトは、分った気がしちゃってるんですね。
でも、身の回りのどんなことも、「普通の答え」 で分った気がすることで、
実は逆に隠しちゃってることがたくさんある!
この問題は、そうした例でもあるんですね。
マーカーリちゃまは、魔女でもあるみたいだけど、
魔女であるということもまた、どこかで、
「普通の人」の当たり前さ=つまらなさを超えて、
この世の隠された秘密を体現しているから、なのじゃないかなあ❤
そうそう。
天国と地獄、真と偽、善と悪、美と蒐、男と女、そういう対立は、結局のところ、
有限な地上に縛られた人間が 「見出したもの」 なんですよね。
この問題、実は、AかBか、という2項の選択だけじゃなくて、
たとえば 「美や愛は語れるか? 語れないか?」 といった問題にも通じてくる。
こうした問題も、ポイントは、その2択の中だけで考えることではなくて、
そうした問い自体、実は何を語って、何を求めようとしているのか、
そしてまた、そうした2択問題にしてしまうとき、何が隠されてしまうのか、
といったことを考える余地があるし、考えた方が良いことが多い、
という、もう一つの 「問題」 に広がる道案内、として考えられるんだよ。
さすが哲学の先生の子供だね
そんなことヘンだと思うとわっ
しかし入不二さんの論理展開は
最初から答えを知っていて
そこに導くために 子供の疑問を利用したように見えるね
哲学というのはむしろ
なんで? とか ヘンじゃね? とか思ったら
先入観を捨てて考えていくことに意味があるんじゃないかな
それに 最後のオマケから逆に考えると
足の裏には 光がないから影もない
って あんまり面白くないハナシになっちゃうもんね=^ω^=
昔 足の裏健康法とか何とかで巷を騒がせた方がいたよーな・・・('I';)