赤紙と白い小石
- カテゴリ:日記
- 2011/08/15 20:39:58
今日は重い内容のブログです。
ですが、この日に書いておかねばと思っています。
いやな方は、どうかスルーしてください。
とある明治生まれの、女性のお話を。
見合い結婚とはいえ、彼女の夫は当時よくいた強権的な男性ではなかった。
編み物が得意で、夕餉のおかずは家族みんなに同じ物を食べさせる…そんな性格の男性だった。
幸せな生活の後、夫は若くして亡くなった。
未亡人の彼女は、がんばって残された子供を育て上げた。
男子5人、女子4人の合計9人。
夭折した三男以外、全員成人した。
それは、当時としては稀有なことだ。
その中で、戦争で亡くなったのは2人。
史上最悪のインパール作戦で、1人は戦死、1人は病死した。
補給を無視した無謀な作戦は、彼らを含め多くの人命を奪った。
彼らを戦地に連れて行ったのが召集令状…赤紙である。
通常、赤は血の色、命の源の色。
だが、戦時中は、死への招待状だった。
この赤い紙は、日本や満州から何十万人もの若い人を故郷から連れ去った。
彼女は、戦地に向かう息子2人を笑って送り出した。
娘の1人が、声を殺して仏壇の前で泣く彼女を見たという。
戦死の通知と、病死の報告が来たときも、彼女は子供達の前で泣かなかった。
やがて、戦地から遺骨が届いた。
白い骨壷が二つ、それが彼女の息子たちの生きた証。
彼女は、無言で骨壷の蓋をとった。
中にあったのは、指の先ほどの小さい白い小石が数個だけ。
遺骨はどこにもなかったそうだ。
この時、彼女は初めて子供達の前で号泣したという。
白い小石を握りしめ、息子たちの名を呼んで、号泣したという。
これは、鬼籍にある母方の祖母の話です。
親戚や母から聞いた話を、まとめて書きました。
こんなことが当時の日本中や、占領していた満州で、たくさんあったことと思います。
二度と、こんな思いをする人がいないことを、心から願っています。
二度の出征なのに、ちゃんと生きて帰ってきたんやね。
他にも出征しはったのに、戦死された人がいてないのは、やはり運が強いんやなあ。きっと。
空襲におうても命があったのはなによりです。
やはり、生きてこその人生やもん。
こうしてネット上で知り合えたのも、そのおかげやしね。
私の父は、満州から命からがら帰還したけど。
シベリア抑留されてたら、たぶん、私は存在してなかったやろうなあ。
戦争は、どんな大義名分があっても起こしてはいけない。
ほとんどの人が、そう思っているのに、今もどこかで戦争が起こっている。
日本は60年以上、戦争がない、稀有な国になりました。
アメリカと戦争をした事実を知らない世代があるぐらいに。
でも、大きな犠牲を払った上の、平和なんだと、それを忘れては駄目です。
戦争は、まちがいなく人間が起こす大きな不幸です。
大切な人を奪う権利は、誰にもないものね。
そんな事が起きないように努力して、momokaちゃんの世代に伝えるのが、大人の役目です。
市街地への空襲は、第二次世界大戦から顕著になりました。
ドイツ旅行した時、市民の募金と努力によってほとんどの都市が戦前の姿を取り戻してました。
日本の都市のほとんども、焦土と化しました。
今、大半の日本人に、空襲の恐怖は解らない。
投下統制、着の身着のままで寝て、枕元に靴を置いて寝る状況も。
そう思いますよ。
シンさんのお父上は、どんな思いで志願されたんでしょうね…
「敵を打ったで」と事もなげに、父はそう私に告げたんやけど。
「そんな時代やった」と、父もいいました。
心情はちがうやろうけど、重い言葉やと思います。
祖母の哀しみ…たくさんの方がそんな思いされています。
その痛みを忘れないようにしないとあきませんね
戦争は異常事態です。
それがどんあ大義名分があろうとも、そう思います。
終戦記念日…私にとっては敗戦記念日なのですが。
広島、長崎、そして取り戻せない多くの命。
それを忘れないように、自分の知っている事を書き続けるつもりです。
シベリアに抑留されて、その上病気にならはったんですか!
やのに、生還された御爺様は、よほど星に守られたんやと思います。
1度めと2度目の間、出征前に生まれていた娘に『こんなおっちゃん知らん!』と泣かれたそうな^^;
次兄も父もそれぞれ召集されたけど、全員無事に戻って来た。
戦後、父と母と見合い結婚して(1人娘やったから婿入りw)1男5女の6人の子供が生まれた。
伯父達もそれぞれ5人と4人の子供がいるけど………なぜだか、どこの家も息子は1人だけw
母も祖母と一緒に大阪市内で暮らしてたけど、空襲で焼け出されて祖父母の実家のある田舎に疎開。
もし夭折したお兄さんが生きてたら、やっぱり召集されてたんやろうなぁ。
母の従兄弟だかはとこだかで戦死した人は居るそうやけど、ごくごく身近な所には
空襲で大変な目にあったものの、みんな無事に生き延びてる。
父は原爆が落とされる数日前まで佐世保に居て、長崎もウロウロしてたとか……(@@;)
これって、偶然が重なっただけかもしれんけど、物凄く運が良かったんやねぇ。
生き延びていてくれた人がいたからこそ、今の私たちがある
でも、それ以上に、生まれてこなかった人たちのことの頭から離れません
この経験から多くを学べば、少しはよい社会になるかなぁ??
戦争は皆さんを不幸にするだけなので、二度とない事を願います。
戦争も選択肢の一つ、と言ってる人達は、スーパーへ買物に行く途中、
空襲警報が鳴って、爆弾が落ちてくるという事態を想像してるんだろうか、と思います。
日本人がそんな状況に耐えて、戦争継続できるかどうか、疑問です。
「なんでそんな馬鹿なことを」と聞く私に
「そういう時代だった。」としか親父は言いませんでした。
多くの犠牲の上に成り立っている「今」に暮らす私たちは幸せですね。
伝え聞いたことでも、どれほど悲しくて嫌なことなのか、少しでもほかの誰かと共有できればいいと思います。
ソ連の捕虜になって
シベリアに抑留されたけど
病気になって奇跡的に帰国出来たんだよ
それが無かったら俺生まれてないw