☆島津家と北条政子
- カテゴリ:その他
- 2011/08/05 00:42:53
島津家は島津忠久から始まりますが、面白い説に源頼朝の落胤というのがあります。真偽のほどは定かではありませんが、「島津系図」によると忠久は頼朝の七男で、母親は丹後の局だそうです。
丹後の局が懐妊中、これを知った頼朝の妻・北条政子は丹後の局の殺害を家臣に命じたのですが、その家臣は丹後の局を密かに摂津に逃がしたとされています。
その後、丹後の局は摂津の国は住吉大社で安産祈願をしているときに急に産気づき、その場で男児を出産したといわれています。この時安産祈願をしたという石が今でも住吉大社の境内にあり、その名も誕生石といいます。
また伝説によると、数匹の狐(狐火)が母子を守ったとされ、このことで島津家は狐を守護獣とし、この時にたまたま雨が降っていたことから雨を吉兆(島津雨)としたそうです。また、島津家は狐を守護獣にしているので、後からこの伝説を作ったとする説もあります。
その後、丹後局は惟宗広言と再婚し、忠久は惟宗氏の養子になったとされています。
島津家の興こりはこのようなものだそうですが、忠久が頼朝の落胤だという説はどうも怪しそうです。ただ、北条政子が命令を下したのは事実らしく、このことがなければ島津家は存在しなかったということになります
ところで、住吉大社の近くには「さつま焼」という和菓子が売られています。江戸時代からの老舗だそうですから島津家と何らかの関係があると思ったので、調べてみたところ関係がないとのことでした。ついでですからそのこともカキコしておきます。
さつま芋が住吉で多く栽培されるようになったのは江戸時代で、元禄のころに時の堺奉行所の代官水野伊予守が薩摩から種芋を取り寄せ、半田山(現在の堺市東山)で栽培し、その後松屋新田から今の難波、木津、住吉新田あたりで作られ、当時から浪華の人達の最も参詣の多かった住吉大社の門前町の店々で売り出されたということでした。
しかし、明治から大正と時代が移り変わり交通運輸が盛んになると、地方から品種改良された甘藷が続々入荷するようになり、昭和初期にはその影をひそめたということでした。
分家の分家の分家の・・・分家ながら
自慢してました~
とても変わった変な苗字で
正直なところ・・・ちょっと・・・あんまり・・・
マルに十文字の薩摩の旗は大好きです(^-^)
つい釘付けになりましたv