人でありたい
- カテゴリ:日記
- 2011/06/14 19:57:25
めざしは、頭から尻尾までまるっと食べる。
鰯は指を使って、さっさとさばく。
包丁を使うのは面倒だし、時間も掛かって鮮度が落ちる。
学校の調理実習や、弁当の時間にこれをやったら、変人認定^^;
フナの解剖は、友人ともども、魚をさばく要領でやった。
誰も怖がってやらなかったし、授業がすすまん。
誰かがやらなきゃ仕方ない、結果、野蛮人たちと言われた。
ちょぃ昔、弁当を食べる前に手を合わせ「いただきます」といった。
、『それ、何の宗教?』と聞かれ、 目が点になった。
同じ人から、この行為は「へん」だと言われた。
私にはなにが変なのか、さっぱりわからない。
給食費を払っているから、自分の子に「頂きます」とか「ご馳走さま」を言わさないでくれ。
こんな馬鹿をゆう親がいると、今の仕事先の同僚から聞いた。
彼女の友人は、現役の小学校の先生。
もう、日常茶飯に近いのだという。
こんな例をあげたのは、理由がある。
悪事を行う人とはなんなのか。
リアル友人と、昼間にチャットで話し合いいろいろ考えることになった。
悪事を行う人の根底には、厳然たる悪意が在る。
誰でもいいから、殺したかった。
むしゃくしゃしたから、火をつけた。
自分が儲かれば、だましの手段で設けてもいい。
自分が遊びたいから、他人の金品を奪う。
そこには、人を人と思わない、悪意が間違いなく存在する。
その悪事の結果が、どんな悲劇を生むか、どんな負の連鎖を巻き起こすか。
恐ろしいまでの「想像力」の欠如が、そこに在る。
最初にあげた私の話は、もう随分と昔のささいなことだ。
だが、ここにも「想像力」の欠如が垣間見える。
想像力は、知ることから始まる。
たとえば、毎日食べるご飯。
この米はどこからくるのか?
誰が炊くのか?
早春の田んぼから、目前のテーブルまで。
それを疑問に思って、知ろうとすることから想像の翼は羽ばたき始める。
想像力は、人を人と成す、大切なものの一つだ。
これが無いと、相手を思いやる事はできないかもしれない。
人を人としてみることすら、不可能かもしれない。
だが、知ることは大人でもできる。
なんでもいい、どんなことでも疑問に思ったら、自分で調べることから始めればいい。
こうして、ネット環境にあるのなら、目の前の箱でもできる。
そこから始めたら、ちゃんと自分の翼は動き始める。
それはいくつになってもできる、ほんとうに簡単なこと。
私はそう思っているし、考えている。
あれこれ、いろいろ考えたよ。
そして、今も考えてる。
自分中心で世界が回ってる、そう思うことがそもそも間違った出発点なのかなあ。
ほんとの出発点は、おぎゃあと生まれた無垢な赤ちゃんだけど。
生きることは、決して、死に向かっていくことじゃないのになあ。
結局は自分次第なのでしょうが・・・
「どこまでが常識か」と同じく、本当の「正解」はないのかもしれません。
そして、「何を軸としてはかるか」で、人としての器(大きさや、形状)を、露呈しているのかな、とちょっと思いましたね。
そうやなあ><
どっぷりゲームやネットに浸かった生活は、原因の1つやと思います。
ネットの映像とかゲームとかで、旅行したつもり、体験したつもり。
いろんなことを知ったつもりでも、そこには実体験の感動があらへん。
そこで終ってしまうから、先にすすめないし、すすもうとしない。
知ることは、興味をもつこと。
興味を持ったら、好奇心がわいて、実際に体験したくなる。
そこから旅にでたりの、行動がおこしたりで、人とのふれあいが始まる。
人と人のつながりは、哀しかったり、辛かったりと痛い部分も多いです。
が、それ以上に、心が通じ合った喜びはめっちゃ大きい…と私は感じたな。
本をもって、街に出かけないとね。
本は、真実を知ることの大きな手助けになる。
ネットや、ゲームも然り。
それとも、ちょっとちゃうと思いますが^^;
マニュアル世代も、なんだか、よく解らないですけども。
日本人の常識は、かわりつつあるような^^;
でも、感謝の心を忘れたらあかんなと思います。
生きてってことは、命を犠牲にしてるってことだもの。
植物も、動物もそれは変わらない…同じ星の上で生きてるんだから。
あ~、それは悔しいよなあ。
私も野蛮人だの、変人だのと言われて、さすがにむっとしたから。
たぶんね、知識だけは、学校でいっぱい情報として入力。
そのまんま脳内放置、もしくは忘却の彼方。
…知らないって人は、多いです><
好奇心は、誰でももってるから、そこから1歩踏み出しさえしたらなあ。
世界で生きるってこんなに、面白いのに。
グーグル先生もいいけど、自分で教えるのもよし^^
増えてますよ、自分が~なかりの人が。
自分だけで世界は回ってないのになあ。
何かをしてもらったら、お返しに自分も何かをする。
それは嬉しい事だし、相手も喜んでくれる。
…感謝の心の、基本中の基本ですね。
よく自由の履き違えっていいますが、自由の権利には、ちゃんと義務もついてくる。
それを忘れ去って、全てなかったことになってますね。
基本的な躾も、どこかにすっぽり置き去り…さて、どこへ向かうのかな。
無知の知と、無知…さて、どちらがより悪いのかな。
私はやはり、無知の知のほうが、より悪い気がするなあ。
どちらにしても、相手を思うって基本的な感情がありません…><
自分中心に考えるのは、想像力とはちょっと番うかなと思います。
それは狡猾さではないかと。
…なんともやりきれない話だけどねえ。
私は思っています。
現実での体験はそのまま真実に結びついていきますが、
電脳の中の真実は、その中でしか通用しない一過性のものですよね。
「Aボタンを押しながら、Bボタンを押せばジャンプできる。」とか
それはそのゲームの中でしか通用しない真実で、
現実の世界にはまったく応用できないものですよね。
そういう時間が多すぎると現実のコミュニケーション能力を磨く時間が減ってくる。
結果、人の心や行動を理解できない人間ができあがる。
無論、ゲームをするなとかネットだめとか言うつもりはありません。
でも、バランスは大事だと思うのですよ。
「真実を知り、それを応用する力」
人としての優しさと知恵を育んでいく上で、
大事なことだと思っています。
「書を捨てよ!街に出よう!」てのがありましたが、
捨てなくてもいいから、外に出なきゃね^^
そういえば、小学校1、2年のころ「乙姫」とかいう機械も存在しない頃、トイレで用を足すときは水を流す習慣が広がった。同級生に「水がもったいない」というと変な顔をされた。今でも私が正しいと思うのに、悔しい
大人でも子供でも気が付いた時から何でも始めて興味を持ってみる事は大事ですね。
でも相手の気持ち考えられない人もいるんだね~
ギブアンドテイク(何か受けたらお返しをする)
他人が喜ぶと自分も嬉しい
だそうです。もう一つくらいあったかな?
でも最近は他人を喜ばせることを嬉しく思わない人が増えてきたようで、
人間としてコワレてるんじゃないかと不安です。
この2つだけは最低身につけてほしいものです。
想像力は、なくはないのでしょう。 ただ、それが自分の都合のいいようにしか向いていないのが、いつのまにか増えているのだと思います。