死後の世界について
- カテゴリ:日記
- 2011/05/18 08:39:08
今、読売新聞の投稿サイト「発言小町」に「人は死んだら無だと物理学者が言って、ニュースになった云々」というトピックが立っている。当然いろいろなレスがついているのだけれど、実は私には臨死体験めいた経験があって、「無ではないのではないか」と思っている。
というよりは、無ではないと思って生きてきたというのが正確かなぁ。最近、臨死体験なる物は死の苦痛を緩和するために脳の中にある種の快感物質ができて起こる物だ、という説に傾いているらしい。
私としては「おいおい・・・」といいたいところだが、現実には白目を剥いて虚空を掻きむしり、体は断末魔の苦痛にのたうっていても、脳内にはお花畑が広がってお空に大きな虹が架かり、真白い鳩が飛び交っている、というような状態になるのなら、それはそれでよいような気もする。
私が死にかけたのは小一の時。劇症の赤痢になっちまったから。原因は、ご近所から頂いた熟したイチジクだとされて(すっかり口が開いていたから)以来一人暮らしを始めるまで、イチジクは食べさせてもらえなくなったという悲しいオマケが・・・
病院へ向かう車の中で、私は牧場にあるような白木の柵と、そのむこうまばゆい光のあふれる初夏の草原を見た。そして、そのときに自分が以前この草原の向こうで、たくさんの仲間達と愛に満ちた時間を共にしていたこと、だけど自分だけの使命を持って、ここへ来たことを「思い出した」
会いたいなぁと思い、でもまだ使命を果たしていないから帰れないけれど、ちょっと会いに行くぐらいならと「ちょっと行ってくるから、後で柵の所に迎えに来て」と言って、柵など見えなかった親はこの時「げっ、この子はもうダメかも!」と思ったそうだ。
生き返って、家へ戻る途中、探したけれど当然柵も草原もなかった。そして、使命が何だったかも忘れてしまい思い出せないまま。ただ、彼らといたときのうれしさは、成長して恋をしたときに再び味わうことができた。
で、私が「おいおい・・」と言いたいのは、小一いらい、あまり生きることに熱心になれなくなったのに、今更「すべては脳の中の幻だった!」では、「私の人生はどうなるの、私の人生を返して~」と自分の脳を責めるしかなくなるからなのだ。責めてもしょうがないし・・・
というわけで、これからも「死後の世界はある」というスタンスで生きていきたい。でも、面倒くさがりの私は、わざわざ発言小町にレスしたりはしない。

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- nagata
- 2011/05/18 16:43
- サルトル「なにもない と言ったときに そこに 無が存在する」
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