クラスのレベルを下げてもらいました。
- カテゴリ:勉強
- 2011/03/07 21:36:43
3月1日 火曜日
今日も、スーパーマーケットでお買い物。
昨日のビールの空き瓶を持って行くと、
デポジットの瓶代がクーポン券の形で戻ってきます。
それで新しいビールを1本買ってと… ☆\(ーーメ
今日もヴュルストヒェン(ソーセージ)と、
ミックスサラダ用の葉物のパックと、
そして、ニシンのへースリング(酢漬けみたいなもの)、
これはビールのつまみのつもり… ☆\(ーーメ
今日は自分のドイツ語力の無さはおろか、
英語力の無さも痛感したので、
なんかとても疎外感を感じて、
心が凹んでいますが、
そんなことを言っていてもしょうがないので、
美味しい物を食べて、ビールを飲んで、
元気をつけましょう。
3月4日 金曜日
クラスのレベルについて行けないので、
クラスを一つ下に変えてもらいました。
昨日、教科書が配られて気がついたのですが、
ひとつ上のクラスに私は振り当てられていたのです。
つまりですね、
これは日本人に典型的だと思うのですが、
私、過去に何度かドイツ語初級文法を学んでいるので、
一定程度の文法理解や単語力はあるのです。
その結果、
クラス分けのためのレベルチェックテストを受けると、
それはペーパーテストですから、
実際の語学力よりも上の結果が出てしまうみたいなのです。
でも、実際のクラスでは、聞けない、話せない。
聞けない、話せないのに、
文法知識を問う問題になると間違いが少ない。
文法問題だけは強い日本人。典型的ですね。
でも、教科書を見たら、
明らかにレベルが一つ上に飛んでいます。
他の学生なら、これは喜ぶべきことなのでしょう。
それだけ早く大学進学テストに近づいたり、
語学力を証明する資格に近づいたことを意味しますから。
でも、私の場合、ドイツ語力が定着しないまま、
上のレベルに進む必要はまったくないので、
一つレベルを落としてもらって、
私にとって楽なレベルで勉強することにしました。
…、でも、先生の指示が聞き取れないことは、
依然として代わりがないのですが…(笑)。
そして、金曜日。
今日は学校が終わった後、
初めてドレスデンの中心部を散歩してみました。
旅行ガイドブックのドレスデンは、
「エルベ川のフィレンツェ」、
バロック建築の宮殿や教会、
オペラ劇場が立ち並ぶ古き良き芸術の都です。
あるいは、バウムクーヘンやシュトーレンの本場であり、
近郊には磁器で有名なマイセンが控える工芸の都です。
でも、私の中のドレスデンは、
来る前も、そして現在も、
どこまでも人工的で現代的な都市です。
なぜなら、この宮殿はそのほとんどがレプリカですから。
つまり、ドレスデンは、
1945年2月13日のドレスデン空爆で、
何もかもが破壊されているからです。
ドレスデン、
それは、トウキョウ、ヒロシマ、ナガサキと並ぶ、
無差別爆撃の攻撃にさらされた都市であり、
無差別爆撃でヨーロッパ最大の犠牲者を生んだ都市なのです。
そして、戦後の復興の中で、
加えて、ドイツ統一以降のこの20年間で、
急速に現代的な都市空間の中に、
このバロック建築群を再建させてきた都市なのです。
ストラッセン・バーン(路面電車)No.8は、
旅行者にその建築群を見せつけるかのように、
ドレスデン中央駅からアルト・シュタット(旧市街)の建築群を抜けて、
ノイエ・シュタット(新市街)へ抜けていきます。
…が、なにか白々しい…
バロック建築群の一歩外に出れば、そこには、
とても現代的なショッピングセンターや事務所が建ち並んでいます。
「古都」までも人工的に現代の中に構築してしまう、
そんな作為的な試みは政治の中だけで私は十分なのですが、
それを生活全般にまで及ぼしてしまうヨーロッパ。
そういう作為を欠いたまま、
無秩序な膨張と崩壊を繰り返すアジア。
政治は作為へ、生死は自然へ。
それが私の信条ですが、
さて、社会生活を作為と自然のどちらに振り当てるべきか。
現代の社会生活は、
もはや自然の循環の中にあるのではなく、
都市空間の中にある以上、
作為として営まれる部分が大きくなっているのは仕方がないのですが、
しかし、…。
でも、急いで結論を出すのはやめましょう。
この都市で生活し始めて、まだ1週間ですし、
便利な都市交通網や充実した生活関連インフラストラクチュアは、
外国人が暮らしていく上でも過ごしやすいこと、この上ないのですから。
明日は、宮殿内の博物館・絵画館巡りをしてみるつもりです。
ドイツ語に限らず、外国で外国語だけで過ごさなければいけない状況は、
やはり、不自由ですし、疎外感もあります。
でも、この疎外感があってこそ、
コミュニケーション手段としての外国語学習があるのだと思いますし、
私は、一人ぼっちでいるのがそれほど苦痛ではない人なので、
これは大きな問題ではないです。
むしろ、私が「粗忽者」で「小心者」であったことを再発見したのが
新鮮でした。
つまり、私、
ともかく何か答えなくてはいけないと思って、
反射的に思わぬことを口にしてしまうことがあって、
自分では「おはよう」と言ったつもりなのに、
「さようなら」を口走っているがしばしば。 ☆\(ーーメ
つまり、感覚や感情が先行していて、
それを表現するだけの語彙や文法の正確さが、
しっかりと定着していないのです。
「変な日本人」になりつつあります(笑)
社会生活は、作為に振り当てざるをえないと思います
善い・悪いではなく、すでに作為の延長上でなくては機能していかないのでは!? と思うのです
それでも、安寿さんは結論を急がずに
日本とは異なる文化・歴史・背景・思想をもつヨーロッパで物思いの時間を大切に過ごしてください