前漢(西漢)・全盛
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- 2010/12/29 16:35:13
景帝はB.C.141年に崩御、劉徹(武帝)が即位。
武帝は文景の治で充実した国力を背景に積極的な施策に乗り出す。
内政面においては郷挙里選の法を定め儒者の官僚登用を開始した。
また諸侯王の権力を更に弱めるために諸侯王が領地を子弟に分け与えて列侯に封建するのを許す推恩の令を出した。
これにより封国は細分化され、諸侯王勢力の弱体化が一層顕著なものとなった。
外交面では北方の匈奴とは、前200年に高祖が大敗を喫して以来、敵対と和平政策が繰り返されていたが、概ね匈奴が優勢である状況が続いていた。
これに対して武帝は前134年に馬邑の土豪であった聶壱の建策を採用、対匈奴戦に着手した。
B.C.129年に実施された第一回遠征では四人の将軍が派遣され、他の将軍が敗北を喫する中で車騎将軍・衛青は匈奴数百の首を獲得する戦果を挙げた。
以後衛青は七度に渡り匈奴へ遠征しその都度大きな戦果を挙げた。
また衛青の甥である霍去病の活躍により、渾邪王が数万の衆と共に投降するという大戦果を挙げた。
これにより匈奴は北方への移動を余儀なくされ、漢は新たに獲得した西方に朔方・敦煌などの郡を設け統治を開始。
また朝鮮の衛氏朝鮮・ベトナムの南越国への征服も実施し、朝鮮には楽浪郡などの四郡を、ベトナムには日南郡を設け新たな直轄領とした。
また匈奴対策の一環として張騫を西方に派遣し、烏孫・大宛などとの関係構築を模索し、外交と軍事力を駆使して西域での影響力を大きく強め、結果としていわゆるシルクロードの交易路が開け、西方の文物が漢にもたらされるなどの影響を与えている。