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前漢(西漢)・建国

戦国時代を統一した秦の始皇帝は皇帝理念・郡県制など後の漢帝国及び中国歴代王朝の基礎となる様々な政策を打ち出した。
しかし二世皇帝が即位すると宦官の趙高の専横を許し、阿房宮など造営費用と労働力を民衆に求め民衆の負担が増大し不満は全国に蔓延。
B.C.209年、河南の陳勝の反乱から陳勝・呉広の乱が発生。
陳勝は秦の討伐軍に敗北し、敗走中に部下に殺害された。
反秦勢力は旧楚の名族、項梁に継承され、楚を復国し義帝を擁立した。
項梁の死後、甥の項羽が反秦軍を率いた。
漢の創始者・劉邦はその部下として秦の首都・咸陽を陥落、秦を滅亡させた。
その後、楚漢戦争(西楚覇王・項羽と項羽から漢中に封建された漢王・劉邦との間の権力抗争)が勃発。
当初は、軍事力が優勢だった項羽に劉邦は度々敗北した。
しかし、投降した兵士を虐殺するなどの悪行が目立った項羽に対し、劉邦は陣中において張良の意見を重視、根拠地・関中には旗揚げ当時からの部下・蕭何を置き、民衆の慰撫に努めさせ、関中からの物資・兵力の補充により敗北後の勢力回復を行い、将軍・韓信を派遣し、華北の広い地帯を征服する。
勢力を積み上げていった劉邦はB.C.202年の垓下の戦いで項羽を打ち破り、中国全土を統一した。
劉邦(高祖)は諸将に推戴され皇帝に即位。
高祖は蕭何・韓信らの功臣たちを諸侯王・列侯に封じ、新たに長安城を造営、
秦制を基にした官制の整備などを行い、国家支配の基を築いた。
しかし高祖は王朝が無事に皇統に継承されるかを考慮し、反対勢力となり得る可能性のある韓信ら功臣の諸侯王を粛清し親族を諸侯王に付け「劉氏にあらざる者は王足るべからず」という体制を構築した。
秦の郡県制に対して、郡県と諸侯国が並立する漢の体制を郡国制と呼ぶ。

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