「山男とサーファー」21
- カテゴリ:日記
- 2010/10/16 22:02:46
山の天候は、すぐに変化する。
突風が突然襲ってきたり、温められた青氷から湯気が立っていたりする。天候が良ければ良いなりに、雪崩の危険も増す。氷と岩肌と、周りは変化に富んでいる。
なるべく楽そうなルートを常に捜しながら、足元のアイゼンをガッチリ、ナンガに食い込ませながら、ピッケルを突き立てて登る。本能の赴くままに、頭の中は雑念など全くない。上へ上へと進むだけ。あとは全くの勘と体力の勝負。
機械的に高度計を見たり、疲れた時は、岩肌にピトンを打ち込み、カラビナをセットしセルフビレーをとって休む。ザイルとアブミで体重を支え、酸素の希薄さから、思った以上に進めない。
誰のためでもない、自分の自己満足のための登攀。登頂に成功したからといって、特別なことは何もない。成功しようと失敗しようと、全人類の99、999%は興味がない。
アポロの月面着陸という、途方もない出来事以来、あとはオリンピックが開催されて、人類の新記録達成という結果が出た時以外、評価され称賛されない。
もっとも、メダルをいくつ獲得したかという、やはり国威発揚の舞台として、選手は頑張らざるを得ない。国を背負った人間は、幸福なのか不幸なのか?
俺のナンガへの挑戦という行為。これはスポーツなのか冒険なのか。
まあ、そんなことはどうでもいい。
俺は、確かに、命懸けという冒険を、いまやっている。
これは、あいつの弔い合戦でもある。
しかし、いま生きているという実感が、フツフツと体中に、歓喜の潮となって湧き上がってくるのを、押さえることは出来なかった。
登山のオリンピックというのも、あっても良いではないか?
鍛え抜かれた肉体と精神。突発的な事故でもない限り、記録に挑戦するということは偉大な事である。命を尊ぶ為に、勇気ある撤退という事も考慮に入れればいい。
苦しい、だから楽しい。様々なスポーツに対して言えることである。トップクライマーと地上と海、またプールで行なわれるスポーツの王者と、どの程度の違いがあるというのだ。トップであればある程、どの競技者も、自己の肉体を酷使し、限界を越えて挑戦したが為に、自己の肉体を破壊し、時には死ぬ者もいる。
万全に、自己の肉体と精神を極限まで鍛錬していても、不慮の事故は避けられない。
俺は、世界にただひとり、命知らずの冒険馬鹿を知っている。偉大なこの男は、エベレストをスキーで滑降した、日本の三浦雄一郎である。
楽しいからやる。命を賭けても・・・。
成功の可能性は10%あったかどうだか。
パラシュートが開いても、彼は転倒して、パックリ開いたクレバスに向かって滑り落ちそうになる。奇跡的に彼の体は、クレバスの直前で止まった。
命懸けでも、挑戦する者があらゆる人々に称賛される。
俺は記録に残らなくとも、人々の記憶に残る、そのような自分であればよいと思っている。
俺の頭の中にある様々な雑念は、今度は逆に、真っ白だった俺の頭の中で、まるで新鮮な泉のように、どんどん湧き出る。
それが今度は、俺の力となっていく。
一つ一つの想いが、べったりとへばり付いている、ナンガからの贈り物として、俺に勇気を与えてくれていた。
俺の足の指は、すでに凍傷に罹っていた。まるで無感覚で、勇気は、その痛みさえ超えてしまっていた。