終戦記念日
- カテゴリ:日記
- 2010/08/15 18:49:58
敗戦から65年目の夏が来た。
夕方、暗くなってきたので電灯のスイッチを入れた。
すると、母がしみじみという。
「暗くなって、誰にもはばからんと電気つけるんは嬉しかったよ」
何気ないけど。とても、とても重い言葉だ。
母は軍港のあった舞鶴で暮らしていた。
何度も空襲にあった。
学校で竹槍で、B29を打ち落とす稽古もしたという。
「そんなん、無理に決まってる。こんなん、戦争負けるで」
母はこう言い放って、周りの大人を動転させたこともあると、亡くなった祖母が言っていた。
私の天邪鬼は、母ゆずりらしい。
戦後は、戦中よりも酷い食糧難になったという。
食べるものも食べられず、栄養失調にもなったそうだ。
亡くなった父はまだ10代半ばなのに、満州に派兵されたそうだ。
戦争末期で満足に銃弾も無かったけれど、内地よりは美味い飯を食ったと笑っていた。
足には敵に撃たれて怪我をした後もあった。
「無論、人も撃ったぞ、戦争やからな」
と、事もなげにまだ幼かった私の心に楔を打ち込んだ。
その他、戦争の話は田舎に帰省するたび、嫌と言うほど聞かされた。
父も母も9人兄弟姉妹なのだ。
このような多人数の兄弟は、ざらにあったという。
聞かされすぎて、まるで自分が体験したように錯覚するほど、リアルな脳内映像が浮かぶようになってしまった。
無論、私は戦争体験なんかあるわけがない。
平和な時代に生まれて、、食物に不自由することなく育った世代だ。
それでも食べ物を残す事に、酷く罪悪感を感じる。
もちろん、食べられるものを捨てる行為にもだ。
こんなもったいないお化けが憑いているのは、戦争体験を親戚中から聞かされたからだ。
それは決して悪いことじゃないと、私は考えている。
のほほんとした平和な日本。
それでも戦争があった事を忘れちゃいけない。
好きな事ができる、話せることがどれほどすごい事なのか、忘れてはいけない。
夕方、暗くなってきたので電灯のスイッチを入れた。
すると、母がしみじみという。
「暗くなって、誰にもはばからんと電気つけるんは嬉しかったよ」
何気ないけど。とても、とても重い言葉だ。
母は軍港のあった舞鶴で暮らしていた。
何度も空襲にあった。
学校で竹槍で、B29を打ち落とす稽古もしたという。
「そんなん、無理に決まってる。こんなん、戦争負けるで」
母はこう言い放って、周りの大人を動転させたこともあると、亡くなった祖母が言っていた。
私の天邪鬼は、母ゆずりらしい。
戦後は、戦中よりも酷い食糧難になったという。
食べるものも食べられず、栄養失調にもなったそうだ。
亡くなった父はまだ10代半ばなのに、満州に派兵されたそうだ。
戦争末期で満足に銃弾も無かったけれど、内地よりは美味い飯を食ったと笑っていた。
足には敵に撃たれて怪我をした後もあった。
「無論、人も撃ったぞ、戦争やからな」
と、事もなげにまだ幼かった私の心に楔を打ち込んだ。
その他、戦争の話は田舎に帰省するたび、嫌と言うほど聞かされた。
父も母も9人兄弟姉妹なのだ。
このような多人数の兄弟は、ざらにあったという。
聞かされすぎて、まるで自分が体験したように錯覚するほど、リアルな脳内映像が浮かぶようになってしまった。
無論、私は戦争体験なんかあるわけがない。
平和な時代に生まれて、、食物に不自由することなく育った世代だ。
それでも食べ物を残す事に、酷く罪悪感を感じる。
もちろん、食べられるものを捨てる行為にもだ。
こんなもったいないお化けが憑いているのは、戦争体験を親戚中から聞かされたからだ。
それは決して悪いことじゃないと、私は考えている。
のほほんとした平和な日本。
それでも戦争があった事を忘れちゃいけない。
好きな事ができる、話せることがどれほどすごい事なのか、忘れてはいけない。
私も戦争はいやです。
戦争は人間のもつあらゆる可能性を破壊してしまうから。
それは古今東西、時や場所を選びません。
ラティアさんの周りで築かれている豊かな人間関係こそが、
人間本来のもつ社会のつながりの基礎だとおもいます。
戦争はそこから破壊してしまうものですから。、
うちの祖父も9人兄弟姉妹の末っ子、かくて長男の息子(甥)と同い年だったそうです。その結果、いまのところ付き合いのあるハトコ(母のイトコの娘)ですが、母の幼馴染です。
こういう関係を考えると人間が子孫残して続いていくって不思議な感じがするけど、戦争でどれだけそれが奪われたことかつくづく残念でなりません。
私たちの親の世代は、多かれ少なかれ戦争を避けては通れないね。
それにしても2度の召集を受けても、生きて戻れた伯父さまは強運の持ち主かも。
大阪大空襲や、広島、長崎の悲劇をご家族が避けられたから、
こうしてここで沙羅さんと知り合えた。
そのことを考えたら、人の縁は不可思議やなあ。
沙羅さんが書いてる通り、戦争の犠牲の上に今の平和が成立してる、
それを忘れたらいけない。
それも日本人の義務やと思う。
けど、確実の知らない世代が増えてるのに、なんだか焦りを感じるなあ。
3人とも日本国内にいたので、無事に元気で戻って来た。
一番上の伯父さんなんて、1度戻ったのに、又召集されたんだよね。
父は数日違いで、原爆の落ちる前の長崎や佐世保に居たらしいけど……
母も大阪空襲に遭ったけど、祖母と2人で何とか逃げ延びる事ができ
家が焼けてしまったから、母の生まれ故郷である田舎に戻りました。
祖父は、戦争が始まる前に亡くなってたから、祖母の実家に身を寄せたらしい。
原爆が落とされた広島と長崎、本土決戦の前に捨て石扱いされた沖縄。
本土でも空襲で亡くなった人が大勢居る。
私自身は祖母や両親からしか聞いた事ないけど、甥っ子姪っ子より下の世代になると
直接体験談を聞く事も出来なくなりそう……なんだよね。
戦争を知らない子供たち。
文字通りほんとうに日本が戦争したことを知らない子供たちが増えています。
貴方が感じる焦燥感、私も強く感じます。
ここや、某所で、うざく思われようと、書くことで誰かの心に残ってくれたら。
誰かに届いてくれたら。
そう思いつつ、私は書いていきたいと思いますよ、
私の父は一歩間違えたら、シベリアに抑留されてたでしょう。
いろんな巡りあわせの末になんとか日本へ帰ってきました。
そのおかげで、今こうして私が存在しています。
母方の叔父2人は、南方戦線で亡くなりました。
戦争という多大な犠牲を払って、今の平和があることを忘れてはいけません。
戦争という異常事態で、日本が何をしたのかもですが。
父は赤紙が来る前に
第二次大戦に志願して参加しました。
「そういう時代だったんだ。」とよく聞かされました。
日本という国がここまで来るのに、
民主主義という宝物を手に入れるために、
どれだけの犠牲を払ってきたのか、
この時期になるとやはり考えさせられます。
幸せの上にあぐらをかいてちゃいけませんね...
日本史の勉強は。大概明治維新で終るのは、のん魔に何の思惑があって??
…なんて思いますね。
今では日本とアメリカが戦争した事すら、知らない子が居る始末です。
日本人が忘れてはいけない日は、終戦と原爆と開戦の日でしょうね
戦争は絶対してはいけないこと。
早く、全ての戦争が終るといいね。
歴史の授業でも、日露戦争あたりまで...
第2次世界大戦など、勉強することもなく終了。 これは、教科書内容でアジア諸国から突っ込まれるのを避けるためではと思えてきます。それとも、日教組で色々思惑があったのかも、右翼からの攻撃とかね
何故、戦争が突入したのか、その時の世の中の考えがどうだったのか、やはり理解しておかなければならないと思います。
あっ 私は、母から「米を捨てると目が潰れる」と、父からは「食べられない皿には箸をつけるな」と教わりました。
戦争で死んだとお父さんに聞いたんだー
戦争はいけない事だと思いました><